Our Story

SINCE 1963

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私たちの物語は、ひとりの女性からはじまりました。

私たちの物語は、ひとりの女性からはじまりました。

1963-1986

1963-1986

創業年月日の由来

創業者は上田喜代子(うえだ・きよこ)という女性でした。創業年月日は「1963年9月8日」としていますが詳しくは不明です。

上田は生前に「1964年の東京五輪を、店を休んで観戦しに行った」と語っていました。また、その東京五輪の関係者用に発行された『陸上競技公式ハンドブック』には店の広告が掲載されいます。

以上のことから、遅くとも東京五輪(1964)の前年には店が存在していたと考え、上田亡き後に親しき者たちが話し合って「1963年」を創業年としました。「9月8日」は上田の誕生日です。

創業年月日の由来

創業者は上田喜代子(うえだ・きよこ)という女性でした。創業年月日は「1963年9月8日」としていますが詳しくは不明です。

上田は生前に「1964年の東京五輪を、店を休んで観戦しに行った」と語っていました。また、その東京五輪の関係者用に発行された『陸上競技公式ハンドブック』には店の広告が掲載されいます。

以上のことから、遅くとも東京五輪(1964)の前年には店が存在していたと考え、上田亡き後に親しき者たちが話し合って「1963年」を創業年としました。「9月8日」は上田の誕生日です。

上田喜代子
(1924-1986)

「ニシのおばちゃん」

1960年頃に小さな雑居ビルの1階に陸上競技専門店として創業。場所は大阪市天王寺区烏ヶ辻。国鉄(現JR)大阪環状線の桃谷駅近くにありました。

上田は当時関東にしか流通していなかったニシスポーツやハリマヤなどの商品を初めて関西に流通させました。その評判は関西中の競技者に広がり、やがて店は若者たちで連日にぎわうように。

しかし、店には看板がないため、選手たちは店を「ニシ の店(ニシスポーツの商品がある店)」、上田を「ニシのおばちゃん」と呼んでいたそうです。

「ニシのおばちゃん」

1960年頃に小さな雑居ビルの1階に陸上競技専門店として創業。場所は大阪市天王寺区烏ヶ辻。国鉄(現JR)大阪環状線の桃谷駅近くにありました。

上田は当時関東にしか流通していなかったニシスポーツやハリマヤなどの商品を初めて関西に流通させました。その評判は関西中の競技者に広がり、やがて店は若者たちで連日にぎわうように。

しかし、店には看板がないため、選手たちは店を「ニシ の店(ニシスポーツの商品がある店)」、上田を「ニシのおばちゃん」と呼んでいたそうです。

「合わんクツは売らん」

上田は「あんたにはまだ、そのクツは、はやい!」とよく言ってました。これは、トップ選手たちが履くシューズに憧れ、それを欲しがる一般選手に対して「もっと強い選手になってから履きなさい」という上田流の励ましの言葉。

「合わんクツは売らん。合わんクツを売ったら作った人の心をムダにする。クツの機能もムダになる。買った人は練習がムダになる。クツは限りある地球の資源でできている。地球の資源をムダにはできん。だから、合わんクツは売らん」

これが、上田の信念でした。

上田は店の経営の他、競技場を貸し切り有名選手を招いて競技講習会を無料で開催するなど、関西の陸上競技界発展のために多くの貢献を果たしました。

「合わんクツは売らん」

上田は「あんたにはまだ、そのクツは、はやい!」とよく言ってました。これは、トップ選手たちが履くシューズに憧れ、それを欲しがる一般選手に対して「もっと強い選手になってから履きなさい」という上田流の励ましの言葉。

「合わんクツは売らん。合わんクツを売ったら作った人の心をムダにする。クツの機能もムダになる。買った人は練習がムダになる。クツは限りある地球の資源でできている。地球の資源をムダにはできん。だから、合わんクツは売らん」

これが、上田の信念でした。

上田は店の経営の他、競技場を貸し切り有名選手を招いて競技講習会を無料で開催するなど、関西の陸上競技界発展のために多くの貢献を果たしました。

1986-2005

1986-2005

物語のつづきは、ふたりめの女性に受け継がれました。

物語のつづきは、ふたりめの女性に受け継がれました。

二代目店主の誕生

1986年2月、上田が他界(享年62歳)。客だった川見あつこが上田の遺志を継ぎ二代目店主となりました。

しかし、当時の日本はバブル景気の絶頂期で店舗の立ち退き問題が勃発、店は存続の危機に。

1991年、川見は家主との数年にわたる裁判を乗り越え、同じ天王寺区内に店舗を移転。10坪に満たない小さな店として再スタートしました。

二代目店主の誕生

1986年2月、上田が他界(享年62歳)。客だった川見あつこが上田の遺志を継ぎ二代目店主となりました。

しかし、当時の日本はバブル景気の絶頂期で店舗の立ち退き問題が勃発、店は存続の危機に。

1991年、川見は家主との数年にわたる裁判を乗り越え、同じ天王寺区内に店舗を移転。10坪に満たない小さな店として再スタートしました。

川見あつこ

アムフィット・システム導入

1993年、アシックス社の勧めにより、アムフィット・システムを導入。アムフィットは、コンピューターで精密測定した足の形状をそのままインソールに再現加工する画期的なシステム。アムフィット本社はアメリカですが、日本ではアシックス社が販売権を持ち、1990年頃より全国のスポーツ店や医療機関に展開しました。

しかし、川見はアシックス社が推進する「インソールのみ」の販売方法に疑問を抱き、すぐに販売を停止。その後、「足」と「インソール」と「シューズ」の3つを一体にするためのフィッティング技術を研究することに専念。結局、販売に至るまでに7年もの年月を費やすことになりました。

アムフィット・システム導入

1993年、アシックス社の勧めにより、アムフィット・システムを導入。アムフィットは、コンピューターで精密測定した足の形状をそのままインソールに再現加工する画期的なシステム。アムフィット本社はアメリカですが、日本ではアシックス社が販売権を持ち、1990年頃より全国のスポーツ店や医療機関に展開しました。

しかし、川見はアシックス社が推進する「インソールのみ」の販売方法に疑問を抱き、すぐに販売を停止。その後、「足」と「インソール」と「シューズ」の3つを一体にするためのフィッティング技術を研究することに専念。結局、販売に至るまでに7年もの年月を費やすことになりました。

フィッティングの予約制開始

2000年頃よりアムフィットを活用したシューズのフィッティングを本格的に開始。その技術が口コミで徐々に広がりはじめ、テレビや雑誌等のメディアでも紹介されるように。その影響で来客数が増加、お客様おひとりずつに丁寧に対応するために、シューズのフィッティングは完全予約制となりました。

フィッティングの予約制開始

2000年頃よりアムフィットを活用したシューズのフィッティングを本格的に開始。その技術が口コミで徐々に広がりはじめ、テレビや雑誌等のメディアでも紹介されるように。その影響で来客数が増加、お客様おひとりずつに丁寧に対応するために、シューズのフィッティングは完全予約制となりました。

インソール Z E R O 開発

多くの人の足の悩みにこたえるため、川見は従来のインソールをさらに進化させたオーダーメイド・インソール「ZERO(ゼロ)」を独自に開発。インソールの原材料であるEVAの原板から贅沢に作成する「ZERO」は、インソールの効果を限りなく高めることに成功しました。「ZERO」の開発によって、川見のシュー・フィッティング技術は、世界にも類例がない高みに達するように。

インソール Z E R O 開発

多くの人の足の悩みにこたえるため、川見は従来のインソールをさらに進化させたオーダーメイド・インソール「ZERO(ゼロ)」を独自に開発。インソールの原材料であるEVAの原板から贅沢に作成する「ZERO」は、インソールの効果を限りなく高めることに成功した。「ZERO」の開発によって、川見のシュー・フィッティング技術は、世界にも類例がない高みに達するように。

2005-

2005-

そして、物語はつづいています。

そして、物語はつづいています。

シュー・フィッティングの専門店に

2005年、現在の鶴橋店舗に移転。お客様の層はもはや「陸上競技専門店」の枠におさまらなくなっていたため、「歩く・走る・生きるをプロデュースするシュー・フィッティングの専門店」としてリニューアル・オープン。

広くなった店舗では、テレビの取材やロケーションも行われるようになりました。

シュー・フィッティングの専門店に

2005年、現在の鶴橋店舗に移転。お客様の層はもはや「陸上競技専門店」の枠におさまらなくなっていたため、「歩く・走る・生きるをプロデュースするシュー・フィッティングの専門店」としてリニューアル・オープン。

広くなった店舗では、テレビの取材やロケーションも行われるようになりました。

川見店主が「鑑定士」デビュー

2012年、川見店主がテレビ番組「開運なんでも鑑定団」に鑑定士として初めて出演。日本人初のオリンピック選手で「日本マラソンの父」と称される金栗四三氏のマラソンシューズの鑑定。伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」の創業者・黒坂辛作氏と金栗四三氏からはじまった日本のマラソンシューズ100年の歴史を語る依頼品の鑑定は大きな感動を呼びました。

その後も、川見店主は陸上競技関連のお宝鑑定士として出演するように。

川見店主が「鑑定士」デビュー

2012年、川見店主がテレビ番組「開運なんでも鑑定団」に鑑定士として初めて出演。日本人初のオリンピック選手で「日本マラソンの父」と称される金栗四三氏のマラソンシューズの鑑定。伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」の創業者・黒坂辛作氏と金栗四三氏からはじまった日本のマラソンシューズ100年の歴史を語る依頼品の鑑定は大きな感動を呼びました。

その後も、川見店主は陸上競技関連のお宝鑑定士として出演するように。

小説『陸王』で注目

2016年、小説『陸王』がベストセラーに。この小説は「業績悪化に苦しむ老舗の足袋メーカーが、起死回生の事業計画としてランニングシューズの開発に挑む」という現代を舞台にした物語。その内容が伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」を想起させるため、発刊元の集英社が「ハリマヤ」の歴史を調査すべく川見店主を取材。その話がスポーツ総合雑誌「Sportiva(スポルティーバ)」のWebサイトにて、短期連載『消えたハリマヤシューズ』と題して大々的に紹介されました。

小説『陸王』で注目

2016年、小説『陸王』がベストセラーに。この小説は「業績悪化に苦しむ老舗の足袋メーカーが、起死回生の事業計画としてランニングシューズの開発に挑む」という現代を舞台にした物語。その内容が伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」を想起させるため、発刊元の集英社が「ハリマヤ」の歴史を調査すべく川見店主を取材。その話がスポーツ総合雑誌「Sportiva(スポルティーバ)」のWebサイトにて、短期連載『消えたハリマヤシューズ』と題して大々的に紹介されました。

大河ドラマ『いだてん』制作に協力

2018年、NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺」の制作に、マラソン足袋・ハリマヤに関する資料提供で協力。翌2019年から放送されたドラマの影響は大きく「ハリマヤ」関連の取材が増え、新聞・ネットのメディアに川見店主がたびたび紹介されるように。

また、熊本県に期間限定で開設された金栗四三ミュージアムには、店に保管していた貴重なハリマヤのシューズを無償で貸し出し、川見店主を紹介したパネルとともに特別展示されました。

大河ドラマ『いだてん』制作に協力

2018年、NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺」の制作に、マラソン足袋・ハリマヤに関する資料提供で協力。翌2019年から放送されたドラマの影響は大きく「ハリマヤ」関連の取材が増え、新聞・ネットのメディアに川見店主がたびたび紹介されるように。

また、熊本県に期間限定で開設された金栗四三ミュージアムには、店に保管していた貴重なハリマヤのシューズを無償で貸し出し、川見店主を紹介したパネルとともに特別展示されました。

この物語のつづきは、あなたとともに。

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