今から100年以上も前の話。
1912年の第5回オリンピック・ストックホルム大会で、日本人初のオリンピック選手・金栗四三さんは、足袋(たび)を履いてマラソンに出場しました。
その足袋を作ったのが、播磨屋(ハリマヤ)足袋店の足袋職人・黒坂辛作さんでした。
播磨屋足袋店は戦後にはシューズメーカー「ハリマヤ」に発展。
その巧みな技術から生み出すランニングシューズは、たくさんの陸上競技選手やランナーたちに愛用されました。
しかし「ハリマヤ」は、1990年頃に忽然と姿を消してしまいました。
オリンピアサンワーズに現存する資料と、みなさんからいただいた言葉で紡(つむ)ぐ、伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」の歴史と、日本のランニングシューズ100年の物語。
作成:オリンピアサンワーズネット編集部
今から100年以上も前の話。
1912年の第5回オリンピック・ストックホルム大会で、
日本人初のオリンピック選手・金栗四三さんは、
足袋(たび)を履いてマラソンに出場しました。
その足袋を作ったのが、
播磨屋(ハリマヤ)足袋店の足袋職人・黒坂辛作さんでした。
播磨屋足袋店は戦後にはシューズメーカー「ハリマヤ」に発展。
その巧みな技術から生み出すランニングシューズは、
たくさんの陸上競技選手やランナーたちに愛用されました。
しかし「ハリマヤ」は、1990年頃に忽然と姿を消してしまいました。
オリンピアサンワーズに現存する資料と、
みなさんからいただいた言葉で紡(つむ)ぐ、
伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」の歴史と、
日本のランニングシューズ100年の物語。
作成:オリンピアサンワーズネット編集部
【第8章】- その5
オリンピアサンワーズ二代目店主
川見あつこ
金栗四三の
マラソンシューズ
を鑑定する
1912年、金栗四三さんはストックホルム五輪に出場。
それからちょうど100年が経過した2012年、金栗さんの故郷・熊本県玉名市で「謎のシューズ」が発見され、テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」に出品されました。
鑑定を依頼されたのは、オリンピアサンワーズ二代目店主・川見あつこ。
そのシューズに秘められた真実とは?
伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」と、日本マラソンとランニングシューズの歴史を探りながら、川見店主が「謎のシューズ」の正体に迫ります。
【全5回】
- 金栗四三とハリマヤ
- 世界を制した金栗足袋の時代
- 時代を開いたカナグリシューズ
- ハリマヤシューズの「秘密」
- 鑑定・金栗四三のマラソンシューズ(このページ)
その5
川見店主が鑑定する
金栗四三のマラソンシューズ
その「正体」
1年がかりの調査
――:
さて、いよいよ「開運!なんでも鑑定団」(以下「鑑定団」)に出品された 「金栗四三のマラソンシューズ」の正体を明かしていきます。
川見店主:
はい。
――:
「鑑定団」は、この「マラソンシューズ」の調査に大変な時間と労力を費やしたと聞きました。
川見店主:
番組に実現するまで、一年がかりの調査になったようです。
――:
調査が難航した原因のひとつは、ハリマヤについての資料がない。そして、もうひとつが、「金栗四三」と「マラソンシューズ」が結びつかない、というところにあったみたいです。
川見店主:
金栗さんといえば、「足袋」ですからね。「鑑定団」は、「金栗足袋」が展示してある博物館や、大手スポーツメーカーにも、しらみ潰しに調査に出向いたそうですが、どこに行っても、「このシューズのことは、わからない」 という答えしか返ってこなかったそうです。調査は完全に行き詰まり、「鑑定」はお蔵入り寸前だったと聞いています。
――:
「金栗さんのマラソンシューズを鑑定してくれ」って言われたとき、川見店主はどんなことを思いましたか?
川見店主:
「そんなこと、わたしにできるわけない!」「でも、そのシューズも見てみたい!」って思いました。「お力になれることがあれば協力します」とお答えしましたが、私が鑑定することになるなんて、夢にも思ってませんでしたから、「調査の協力はしますから、鑑定団さん、あとはがんばってくださいね」ぐらいの気持ちでした(笑)。
――:
まして番組に出る気なんて、さらさらなかった。
川見店主:
誰かが「鑑定」してくれるのを「見る」側にいるつもりでしたから(笑)。
――:
しかし、そういうわけにもいかず(笑)、「金栗四三のマラソンシューズ」の正体に迫る、謎解きの日々がはじまったわけです。
【謎1】それは、ホンモノのハリマヤシューズか?
――:
問題は、これが「ホンモノ」かどうかです。「鑑定のマラソンシューズ」が、「ホンモノ」のハリマヤ製のシューズだと証明することはできますか?
川見店主:
これは間違いなく、「ハリマヤ」のシューズです。 見ればわかります。ハリマヤのシューズには、ハリマヤにしかない特徴がありますから。例えば、このスニーカーを見てください。
――:
あぁ、これは前回にも紹介しました、1970年代にオリンピアサンワーズの創業者・上田がハリマヤに生産を頼んだ、オリジナルのスニーカーですよね。
川見店主:
ハリマヤのシューズの大きな特徴は、 踵(かかと)からつま先にかけて、外側のラインがとてもふくらんでいるこの「かたち」にあります。
――:
確かに、このスニーカーは外側がふくらんでます。
川見店主:
このふくらみが、足に優しい「かたち」です。日本人の足をうまく包み込んでくれるのです。 この「かたち」があるから、ハリマヤのシューズは日本人の足に合うんです。
――:
ハリマヤ以外のメーカーのシューズに、この「かたち」はないんでしょうか?
川見店主:
近いものはあるかもしれません。でも、ハリマヤのシューズだけは、 この「かたち」が「絶妙」なんですよ。
――:
でもなぜ、ハリマヤだけが、そんな「絶妙」な「かたち」のシューズを作ることができたんですか?
川見店主:
それは、 ハリマヤのはじまりが「足袋屋」さんだからですよ。
――:
あ、そうか!「足袋」の「かたち」が基(もと)だから、日本人の足に合うんですね!
川見店主:
「足袋」→「マラソン足袋」→「マラソンシューズ」と進化を遂げてきたハリマヤ独自の技術が、日本人の足に合い、また、よく走れる、理想的な「かたち」のシューズを生み出したのです。「鑑定のマラソンシューズ」も、外側のラインが大きくふくらんでいますよね。
――:
これまたビックリするくらいにふくらんでます。
川見店主:
絶妙ですね。これこそがハリマヤのシューズです。それと、もうひとつ、サンワーズのオリジナル・スニーカーが、決定的な証拠を示しています。ここの部分の 縫製(ほうせい)を見てください。
――:
あっ!これ、同じ縫製方法じゃないですか!
川見店主:
2枚の葉が開いているようなハリマヤの縫製が一致してます。
――:
それにしてもサンワーズのオリジナル・スニーカーが、鑑定の立証に役立つなんて。よくぞお店に残っていましたね。
川見店主:
上田が生前に成してきたことには、すべて大事な意味があると思っていますから、このスニーカーも大切に保管しておいたんです。最後に、「鑑定のマラソンシューズ」の裏側には、ゴムに「ハリマヤ」の文字がありますよね。
――:
磨耗と劣化でちょっと見えにくいですが、うっすらと「ハリマヤ」の文字が確認できます。
川見店主:
シューズの「かたち」と「縫製方法」の一致。シューズ裏側の「ハリマヤ」の文字。「鑑定のマラソンシューズ」が「ハリマヤ」製であることは間違いないでしょう。
【謎2】そのマラソンシューズは、いつ作られたのか?
――:
さて、次に挑む“謎”は、この「鑑定のマラソンシューズ」が、 いつの時代に作られたものか?ということです。
川見店主:
難問です。この謎が解けなければ、鑑定は不可能です。
――:
鑑定のマラソンシューズ」は、明らかに古いですよね。
川見店主:
- 鑑定のマラソンシューズ
- ハリマヤのカタログ掲載の「カナグリシューズ」
- 1953年ボストンマラソン優勝時の山田敬蔵さんの「カナグリシューズ」
この3つのシューズを見比べてみましょう。
川見店主:
①よりも②③の方が、アッパー(表面)の補強がしっかりしています。改良の跡が見られますし、断然にモノがいい。①は、まだまだ完成されていない、という印象を受けます。
――:
ということは、「①鑑定のマラソンシューズ」は、「③山田さんのカナグリシューズ」よりも前、つまり、1953年以前のシューズであると。
川見店主:
ハリマヤの歴史と合わせて考えると、「1950-53年」の時代に絞れると思います。
――:
終戦後アメリカの物資統制が解除される1950年から、山田さんがボストンマラソンで優勝した1953年までの間、ということですね。
川見店主:
でも、これは私の推測でしかありませんから。
――:
鑑定の立証としては、ちょっと弱いですかね。
川見店主:
だから、黒坂さんの曾孫さんや、私が昔お世話になったハリマヤの元社員さんにもご協力いただき、番組サイドと情報を共有しながら調査を続けました。そして、ついに番組サイドで、 ハリマヤの「元社長」さんを探し当てたのです。
――:
うわっ、そんな人物にまでつながったんですか!
川見店主:
はい。いろんなめぐりあわせがあって、「鑑定団」の番組ディレクターが、「鑑定のマラソンシューズ」を持参して、お話をうかがう機会に恵まれました。そして、この「マラソンシューズ」の生産時期について決定的な証言を得ることができました。
――:
それはスゴい!で、このシューズ、いつの時代に作られたモノだったんですか?
川見店主:
「1950-51年」の時期に作られたモノだそうです。
――:
ということは、「マラソン足袋」時代に終止符を打ち「マラソンシューズ」時代の幕が明けた1953年よりも、さらに前に作られたってことですね。
川見店主:
この「鑑定のマラソンシューズ」は、 日本のマラソンシューズ第一号とされる「カナグリシューズ」の最も初期のモデルだったのです。
【謎3】なぜ「足袋」ではなく「シューズ」なのか?
――:
さて、最後に残る“謎”が、なぜ、この「鑑定のマラソンシューズ」を、金栗四三さんがお持ちになっていたのか?ということです。
川見店主:
冒頭にも申しましたが、金栗さんと言えば、「マラソン足袋」ですからね。
――:
「鑑定のマラソンシューズ」が作られた「1950-51」年当時、金栗さんは60歳前後。金栗さんはそんなご年齢でも、この「マラソンシューズ」を実際に履いて走ってらっしゃったんでしょうか?
川見店主:
もちろん金栗さんは現役を退いていらっしゃいます。でも、その頃もまだまだ走っていらしゃいますよ。とにかく、生涯にわたって走りつづけられたんですから。
――:
金栗さん、生涯の走行距離が、25万キロというお話ですものね。
川見店主:
「1950-51」年当時も、金栗さんと、黒坂さんのハリマヤが、マラソンシューズの共同開発を続けておられたのだと思います。
――:
1954年の新聞記事も、その歴史を裏付けています。
川見店主:
黒坂さんは、新しくマラソンシューズができあがると、金栗さんに履いて走ってもらったんでしょうね。
――:
だから、金栗さんの手元に、この「マラソンシューズ」があったのですね。
川見店主:
そして、シューズに対する金栗さんのご意見は、ハリマヤのさらなるマラソンシューズの開発に反映されたんだと思います。 「マラソン足袋」「金栗足袋」の開発と同じように、「マラソンシューズ」の開発にも、金栗さんと黒坂さんは、試行錯誤を繰り返しておられたんだと思います。
――:
黒坂さんの当時のご年齢は70歳。この「マラソンシューズ」は、金栗さんと黒坂さんが出会ってから、約40年後の作品ということになります。
川見店主:
おふたりはずっと一緒に走ってこられたんですね。
「金栗四三のマラソンシューズ」が物語るもの
――:
「金栗四三のマラソンシューズ」の「正体」は、 「金栗さんとハリマヤとの共同開発によって1950-51年頃に作られた、カナグリシューズ(マラソンシューズ)の最も初期のモデル」という鑑定結果になりました。
川見店主:
日本の 「マラソンシューズ」の「原型」と呼んでもいいと思います。
――:
マラソン「足袋」ではない。でも、完成されたマラソン「シューズ」でもない。まさに、時代が「足袋」から「シューズ」へと大きく変わる時に産み落とされたシューズなんですね。
川見店主:
この「マラソンシューズ」は、「マラソン足袋」からはじまる金栗さんと黒坂さんの共同開発がたどりついた、ひとつの到達点であると思います。そして、日本の「ランニングシューズ」はここを出発点として進化することができた。
――:
「マラソン足袋」の到達点にして、「ランニングシューズ」の出発点。
川見店主:
だから、 この「マラソンシューズ」の後方には、日本マラソン黎明期における金栗さんと黒坂さんおふたりの苦闘の歴史がつながっている。そして、前方には、現在に至るランニングシューズの未来がつながっている。
――:
このシューズは、すごいものを背負ってるんですね。
川見店主:
壮大な「歴史」と「ロマン」を感じます。
――:
1912年ストックホルム五輪からはじまった日本のマラソン。その100年の時代をも物語っているようです。
川見店主:
私は、この「マラソンシューズ」を目の前にした時、胸がいっぱいになりました。金栗さんのマラソンに賭けられた生涯を想いました。黒坂さんのモノ作りに賭けられた情熱を感じました。金栗さんは「日本マラソンの父」と称されています。であるならば、 黒坂さんの作られたマラソン「足袋」や「シューズ」は、日本のランニングシューズの「原点」だと思います。
【鑑定結果】
金栗四三のマラソンシューズ
1903年に黒坂辛作という足袋職人が「播磨屋足袋店」を開業。「ハリマヤ」はその後 ランニングシューズを作るようになり、最高の靴だというので日本の長距離走者の間で評判となった。
依頼品は播磨屋で1950~1951年に作られた物で、まさに今のマラソンシューズの原点といえる最も初期のシューズ。金栗の教え子である山田敬蔵が1953年にハリマヤのシューズを 履いてボストンマラソンで優勝し、その時の靴が日本初のマラソンシューズと言われているが、依頼品はそれより更に古い。
金栗はこの頃60歳前後で現役は退いているが、ハリマヤとは共に試行錯誤しながら一緒にシューズの開発に努めた。形は、かかとから外側に非常に出っ張っている。これはよく走る人間に特徴的な足形で、足に優しく運動のしやすい靴。
(テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」番組ホームページに紹介されている川見店主の鑑定結果です。)
【反響】
川見店主が鑑定した「金栗四三のマラソンシューズ」は、金栗さんの故郷・熊本県でも大きな話題となり新聞記事に掲載されました。
金栗四三氏ら開発
「元祖・マラソン靴」
―熊本日日新聞(平成25年01月25日付)―
玉名市築地の公務員、徳永慎二さん(56)の自宅に保管されていた靴が、「日本マラソンの父」として知られる 金栗四三氏らが開発した、 「現在のマラソンシューズの原型」とテレビ番組で鑑定された。徳永さんの父重敏さんが50年ほど前、金栗氏から譲り受けたものだという。
金栗氏は 和水町出身。 日本人初の五輪選手で、 箱根駅伝の創設などスポーツ振興にも多大な功績を残した。金栗氏と家が近所で親交が深かった重敏さんが、金栗氏から直接、もらったという。
長年、靴の由来が気になっていた徳永さんは昨年12月、テレビ番組 「開運!なんでも鑑定団」に出演。靴は東京都の足袋メーカー「ハリマヤ」が金栗氏とともに開発し、 1950年ごろ製造されたものだと判明した。
鑑定した大阪市の陸上競技用品店の 川見充子店主によると、ハリマヤは当時 「金栗足袋」と呼ばれる親指の部分が分かれた足袋型のマラソン用の靴を製造、改良を重ねていた。
「足袋型からマラソンシューズに移行する一番初期のころのものではないか。日本の靴の歴史を語る上で非常に重要」
と川見店主。
徳永さんは
「長年疑問に思っていた靴の謎が解けて良かった。日本中の人が目にすることができるよう、博物館などに引き取ってほしい」
と話している。
(初出2013年04月13日)
編集メモ
「金栗四三のマラソンシューズ」、その鑑定に至る調査には、たくさんの方々にご協力いただきました。皆様には厚く御礼申し上げます。誠にありがとうございました。
事実確認や時代考証には、以下の著書や資料も参考にさせていただきました。
- 「箱根駅伝に賭けた夢」佐山和夫著
- 「マラソン百話」高橋進著
- 「私心がなければ皆が活きる」鬼塚喜八郎著
- 「金栗四三展」玉名歴史博物館
【第8章】- その5
オリンピアサンワーズ二代目店主
川見あつこが鑑定する
金栗四三の
マラソンシューズ
1912年、金栗四三さんはストックホルム五輪に出場。
それからちょうど100年が経過した2012年、金栗さんの故郷・熊本県玉名市で「謎のシューズ」が発見され、テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」に出品されました。
鑑定を依頼されたのは、オリンピアサンワーズ二代目店主・川見あつこ。
そのシューズに秘められた真実とは?
伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」と、日本マラソンとランニングシューズの歴史を探りながら、川見店主が「謎のシューズ」の正体に迫ります。
【全5回】
- 金栗四三とハリマヤ
- 世界を制した金栗足袋の時代
- 時代を開いたカナグリシューズ
- ハリマヤシューズの「秘密」
- 鑑定・金栗四三のマラソンシューズ(このページ)
その5
川見店主が鑑定する
金栗四三のマラソンシューズ
その「正体」
1年がかりの調査
――:
さて、いよいよ「開運!なんでも鑑定団」(以下「鑑定団」)に出品された 「金栗四三のマラソンシューズ」の正体を明かしていきます。
川見店主:
はい。
――:
「鑑定団」は、この「マラソンシューズ」の調査に大変な時間と労力を費やしたと聞きました。
川見店主:
番組に実現するまで、一年がかりの調査になったようです。
――:
調査が難航した原因のひとつは、ハリマヤについての資料がない。
そして、もうひとつが、「金栗四三」と「マラソンシューズ」が結びつかない、というところにあったみたいです。
川見店主:
金栗さんといえば、「足袋」ですからね。
「鑑定団」は、「金栗足袋」が展示してある博物館や、大手スポーツメーカーにも、しらみ潰しに調査に出向いたそうですが、どこに行っても、「このシューズのことは、わからない」 という答えしか返ってこなかったそうです。
調査は完全に行き詰まり、「鑑定」はお蔵入り寸前だったと聞いています。
――:
「金栗さんのマラソンシューズを鑑定してくれ」って言われたとき、川見店主はどんなことを思いましたか?
川見店主:
「そんなこと、わたしにできるわけない!」
「でも、そのシューズも見てみたい!」
って思いました。
「お力になれることがあれば協力します」
とお答えしましたが、私が鑑定することになるなんて、夢にも思ってませんでした。
「調査の協力はしますから、鑑定団さん、あとはがんばってくださいね」
ぐらいの気持ちでした(笑)。
――:
まして番組に出る気なんて、さらさらなかった。
川見店主:
誰かが「鑑定」してくれるのを「見る」側にいるつもりでしたから(笑)。
――:
しかし、そういうわけにもいかず(笑)、「金栗四三のマラソンシューズ」の正体に迫る、謎解きの日々がはじまったわけです。
【謎1】それは、ホンモノのハリマヤシューズか?
――:
問題は、これが「ホンモノ」かどうかです。
「鑑定のマラソンシューズ」が、「ホンモノ」のハリマヤ製のシューズだと証明することはできますか?
川見店主:
これは間違いなく、「ハリマヤ」のシューズです。
見ればわかります。
ハリマヤのシューズには、ハリマヤにしかない特徴がありますから。
例えば、このスニーカーを見てください。
――:
あぁ、これは前回にも紹介しました、1970年代にオリンピアサンワーズの創業者・上田がハリマヤに生産を頼んだ、オリジナルのスニーカーですよね。
川見店主:
ハリマヤのシューズの大きな特徴は、 踵(かかと)からつま先にかけて、外側のラインがとてもふくらんでいるこの「かたち」にあります。
――:
確かに、このスニーカーは外側がふくらんでます。
川見店主:
このふくらみが、足に優しい「かたち」です。
日本人の足をうまく包み込んでくれるのです。
この「かたち」があるから、ハリマヤのシューズは日本人の足に合うんです。
――:
ハリマヤ以外のメーカーのシューズに、この「かたち」はないんでしょうか?
川見店主:
近いものはあるかもしれません。
でも、ハリマヤのシューズだけは、 この「かたち」が「絶妙」なんですよ。
――:
でもなぜ、ハリマヤだけが、そんな「絶妙」な「かたち」のシューズを作ることができたんですか?
川見店主:
それは、 ハリマヤのはじまりが「足袋屋」さんだからですよ。
――:
あ、なるほど!
足袋の「かたち」が基(もと)だから、日本人の足に合うんですね!
川見店主:
「足袋」→「マラソン足袋」→「マラソンシューズ」と進化を遂げてきたハリマヤ独自の技術が、日本人の足に合い、また、よく走れる、理想的な「かたち」のシューズを生み出したのです。
「鑑定のマラソンシューズ」も、外側のラインが大きくふくらんでいますよね。
――:
これまたビックリするくらいにふくらんでます。
川見店主:
これこそがハリマヤのシューズです。
それと、もうひとつ、サンワーズのオリジナル・スニーカーが、決定的な証拠を示しています。
ここの部分の 縫製(ほうせい)を見てください。
――:
あっ!これ、同じ縫製方法じゃないですか!
川見店主:
2枚の葉が開いているようなハリマヤの縫製が一致してます。
――:
それにしてもサンワーズのオリジナル・スニーカーが、鑑定の立証に役立つなんて。よくぞお店に残っていましたね。
川見店主:
上田が生前に成してきたことには、すべて大事な意味があると思っていますから、このスニーカーも大切に保管しておいたんです。
最後に、「鑑定のマラソンシューズ」の裏側には、ゴムに「ハリマヤ」の文字がありますよね。
――:
磨耗と劣化でちょっと見えにくいですが、うっすらと「ハリマヤ」の文字が確認できます。
川見店主:
シューズの「かたち」と「縫製方法」の一致。
シューズ裏側の「ハリマヤ」の文字。
「鑑定のマラソンシューズ」が「ハリマヤ」製であることは間違いないでしょう。
【謎2】そのマラソンシューズは、いつ作られたのか?
――:
さて、次に挑む“謎”は、この「鑑定のマラソンシューズ」が、 いつの時代に作られたものか?ということです。
川見店主:
難問です。この謎が解けなければ、鑑定は不可能です。
――:
鑑定のマラソンシューズ」は、明らかに古いですよね。
川見店主:
- 鑑定のマラソンシューズ
- ハリマヤのカタログ掲載の「カナグリシューズ」
- 1953年ボストンマラソン優勝時の山田敬蔵さんの「カナグリシューズ」
この3つのシューズを見比べてみましょう。
川見店主:
①よりも②③の方が、アッパー(表面)の補強がしっかりしています。
改良の跡が見られますし、断然にモノがいい。
①は、まだまだ完成されていない、という印象を受けます。
――:
ということは、「①鑑定のマラソンシューズ」は、「③山田さんのカナグリシューズ」よりも前、つまり、1953年以前のシューズであると。
川見店主:
ハリマヤの歴史と合わせて考えると、「1950-53年」の時代に絞れると思います。
――:
終戦後アメリカの物資統制が解除される1950年から、山田さんがボストンマラソンで優勝した1953年までの間、ということですね。
川見店主:
でも、これは私の推測でしかありませんから。
――:
鑑定の立証としては、ちょっと弱いですかね。
川見店主:
だから、黒坂さんの曾孫さんや、私が昔お世話になったハリマヤの元社員さんにもご協力いただき、番組サイドと情報を共有しながら調査を続けました。
そして、ついに番組サイドで、 ハリマヤの「元社長」さんを探し当てたのです。
――:
うわっ、そんな人物にまでつながったんですか!
川見店主:
いろんなめぐりあわせがあって、「鑑定団」の番組ディレクターが、「鑑定のマラソンシューズ」を持参して、お話をうかがう機会に恵まれました。
そして、この「マラソンシューズ」の生産時期について決定的な証言を得ることができました。
――:
で、このシューズ、いつの時代に作られたモノだったんですか?
川見店主:
「1950-51年」の時期に作られたモノだそうです。
――:
ということは、「マラソン足袋」時代に終止符を打ち「マラソンシューズ」時代の幕が明けた1953年よりも、さらに前に作られたってことですね。
川見店主:
この「鑑定のマラソンシューズ」は、 日本のマラソンシューズ第一号とされる「カナグリシューズ」の最も初期のモデルだったのです。
【謎3】なぜ「足袋」ではなく「シューズ」なのか?
――:
さて、最後に残る“謎”が、なぜ、この「鑑定のマラソンシューズ」を、金栗四三さんがお持ちになっていたのか?ということです。
川見店主:
冒頭にも申しましたが、金栗さんと言えば、「マラソン足袋」ですからね。
――:
「鑑定のマラソンシューズ」が作られた「1950-51」年当時、金栗さんは60歳前後。
金栗さんはそんなご年齢でも、この「マラソンシューズ」を実際に履いて走ってらっしゃったんでしょうか?
川見店主:
もちろん金栗さんは現役を退いていらっしゃいます。
でも、その頃もまだまだ走っていらしゃいますよ。
とにかく、生涯にわたって走りつづけられたんですから。
――:
金栗さん、生涯の走行距離が、25万キロというお話ですものね。
川見店主:
「1950-51」年当時も、金栗さんと、黒坂さんのハリマヤが、マラソンシューズの共同開発を続けておられたのだと思います。
――:
1954年の新聞記事も、その歴史を裏付けています。
川見店主:
黒坂さんは、新しくマラソンシューズができあがると、金栗さんに履いて走ってもらったんでしょうね。
――:
だから、金栗さんの手元に、この「マラソンシューズ」があったのですね。
川見店主:
そして、シューズに対する金栗さんのご意見は、ハリマヤのさらなるマラソンシューズの開発に反映されたんだと思います。
「マラソン足袋」「金栗足袋」の開発と同じように、「マラソンシューズ」の開発にも、金栗さんと黒坂さんは、試行錯誤を繰り返しておられたんだと思います。
――:
黒坂さんの当時のご年齢は70歳。
この「マラソンシューズ」は、金栗さんと黒坂さんが出会ってから、約40年後の作品ということになります。
川見店主:
おふたりはずっと一緒に走ってこられたんですね。
「金栗四三のマラソンシューズ」が物語るもの
――:
「金栗四三のマラソンシューズ」の「正体」は、「金栗さんとハリマヤとの共同開発によって1950-51年頃に作られた、カナグリシューズ(マラソンシューズ)の最も初期のモデル」という鑑定結果になりました。
川見店主:
日本の 「マラソンシューズ」の「原型」と呼んでもいいと思います。
――:
マラソン「足袋」ではない。
でも、完成されたマラソン「シューズ」でもない。
まさに、時代が「足袋」から「シューズ」へと大きく変わる時に産み落とされたシューズなんですね。
川見店主:
この「マラソンシューズ」は、「マラソン足袋」からはじまる金栗さんと黒坂さんの共同開発がたどりついた、ひとつの到達点であると思います。
そして、日本の「ランニングシューズ」はここを出発点として進化することができた。
――:
「マラソン足袋」の到達点にして、「ランニングシューズ」の出発点。
川見店主:
だから、 この「マラソンシューズ」の後方には、日本マラソン黎明期における金栗さんと黒坂さんおふたりの苦闘の歴史がつながっている。
そして、前方には、現在に至るランニングシューズの未来がつながっている。
――:
このシューズは、すごいものを背負ってるんですね。
川見店主:
壮大な「歴史」と「ロマン」を感じます。
――:
1912年ストックホルム五輪からはじまった日本のマラソン。
その100年の時代をも物語っているようです。
川見店主:
私は、この「マラソンシューズ」を目の前にした時、胸がいっぱいになりました。
金栗さんのマラソンに賭けられた生涯を想いました。
黒坂さんのモノ作りに賭けられた情熱を感じました。
金栗さんは「日本マラソンの父」と称されています。
であるならば、 黒坂さんの作られたマラソン「足袋」や「シューズ」は、日本のランニングシューズの「原点」だと思います。
【鑑定結果】
金栗四三のマラソンシューズ
1903年に黒坂辛作という足袋職人が「播磨屋足袋店」を開業。「ハリマヤ」はその後 ランニングシューズを作るようになり、最高の靴だというので日本の長距離走者の間で評判となった。
依頼品は播磨屋で1950~1951年に作られた物で、まさに今のマラソンシューズの原点といえる最も初期のシューズ。金栗の教え子である山田敬蔵が1953年にハリマヤのシューズを 履いてボストンマラソンで優勝し、その時の靴が日本初のマラソンシューズと言われているが、依頼品はそれより更に古い。
金栗はこの頃60歳前後で現役は退いているが、ハリマヤとは共に試行錯誤しながら一緒にシューズの開発に努めた。形は、かかとから外側に非常に出っ張っている。これはよく走る人間に特徴的な足形で、足に優しく運動のしやすい靴。
(テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」番組ホームページに紹介されている川見店主の鑑定結果です。)
【反響】
川見店主が鑑定した「金栗四三のマラソンシューズ」は、金栗さんの故郷・熊本県でも大きな話題となり新聞記事に掲載されました。
金栗四三氏ら開発
「元祖・マラソン靴」
―熊本日日新聞(平成25年01月25日付)―
玉名市築地の公務員、徳永慎二さん(56)の自宅に保管されていた靴が、「日本マラソンの父」として知られる 金栗四三氏らが開発した、 「現在のマラソンシューズの原型」とテレビ番組で鑑定された。徳永さんの父重敏さんが50年ほど前、金栗氏から譲り受けたものだという。
金栗氏は 和水町出身。 日本人初の五輪選手で、 箱根駅伝の創設などスポーツ振興にも多大な功績を残した。金栗氏と家が近所で親交が深かった重敏さんが、金栗氏から直接、もらったという。
長年、靴の由来が気になっていた徳永さんは昨年12月、テレビ番組 「開運!なんでも鑑定団」に出演。靴は東京都の足袋メーカー「ハリマヤ」が金栗氏とともに開発し、 1950年ごろ製造されたものだと判明した。
鑑定した大阪市の陸上競技用品店の 川見充子店主によると、ハリマヤは当時 「金栗足袋」と呼ばれる親指の部分が分かれた足袋型のマラソン用の靴を製造、改良を重ねていた。
「足袋型からマラソンシューズに移行する一番初期のころのものではないか。日本の靴の歴史を語る上で非常に重要」
と川見店主。
徳永さんは
「長年疑問に思っていた靴の謎が解けて良かった。日本中の人が目にすることができるよう、博物館などに引き取ってほしい」
と話している。
(初出2013年04月13日)
編集メモ
「金栗四三のマラソンシューズ」、その鑑定に至る調査には、たくさんの方々にご協力いただきました。皆様には厚く御礼申し上げます。誠にありがとうございました。
事実確認や時代考証には、以下の著書や資料も参考にさせていただきました。
- 「箱根駅伝に賭けた夢」佐山和夫著
- 「マラソン百話」高橋進著
- 「私心がなければ皆が活きる」鬼塚喜八郎著
- 「金栗四三展」玉名歴史博物館
Dedicated to the memories of Shinsaku Kurosaka.
Special thanks to Tomiyo Fukuda.
Produced by Olympia Sunwards
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