今から100年以上も前の話。
1912年の第5回オリンピック・ストックホルム大会で、日本人初のオリンピック選手・金栗四三さんは、足袋(たび)を履いてマラソンに出場しました。
その足袋を作ったのが、播磨屋(ハリマヤ)足袋店の足袋職人・黒坂辛作さんでした。
播磨屋足袋店は戦後にはシューズメーカー「ハリマヤ」に発展。
その巧みな技術から生み出すランニングシューズは、たくさんの陸上競技選手やランナーたちに愛用されました。
しかし「ハリマヤ」は、1990年頃に忽然と姿を消してしまいました。
オリンピアサンワーズに現存する資料と、みなさんからいただいた言葉で紡(つむ)ぐ、伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」の歴史と、日本のランニングシューズ100年の物語。
作成:オリンピアサンワーズネット編集部
今から100年以上も前の話。
1912年の第5回オリンピック・ストックホルム大会で、
日本人初のオリンピック選手・金栗四三さんは、
足袋(たび)を履いてマラソンに出場しました。
その足袋を作ったのが、
播磨屋(ハリマヤ)足袋店の足袋職人・黒坂辛作さんでした。
播磨屋足袋店は戦後にはシューズメーカー「ハリマヤ」に発展。
その巧みな技術から生み出すランニングシューズは、
たくさんの陸上競技選手やランナーたちに愛用されました。
しかし「ハリマヤ」は、1990年頃に忽然と姿を消してしまいました。
オリンピアサンワーズに現存する資料と、
みなさんからいただいた言葉で紡(つむ)ぐ、
伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」の歴史と、
日本のランニングシューズ100年の物語。
作成:オリンピアサンワーズネット編集部
【第8章】- その3
オリンピアサンワーズ二代目店主
川見あつこ
金栗四三の
マラソンシューズ
を鑑定する
1912年、金栗四三さんはストックホルム五輪に出場。
それからちょうど100年が経過した2012年、金栗さんの故郷・熊本県玉名市で「謎のシューズ」が発見され、テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」に出品されました。
鑑定を依頼されたのは、オリンピアサンワーズ二代目店主・川見あつこ。
そのシューズに秘められた真実とは?
伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」と、日本マラソンとランニングシューズの歴史を探りながら、川見店主が「謎のシューズ」の正体に迫ります。
【全5回】
- 金栗四三とハリマヤ
- 世界を制した金栗足袋の時代
- 時代を開いたカナグリシューズ(このページ)
- ハリマヤシューズの「秘密」
- 鑑定・金栗四三のマラソンシューズ
その3
新しい時代の扉を開いた
1953年のカナグリシューズ
マラソン足袋の「名称」について
――:
ここで、マラソン足袋の進化を整理しておきます。
- 1903年:播磨屋足袋店創業
- 1911年:マラソン足袋開発
- 1919年:金栗足袋開発
- 1936年:ベルリン五輪、金栗足袋で優勝
- 1951年:ボストンマラソン、金栗足袋で優勝
いつもややこしくなるのが、マラソン足袋の「名称」です。ぜんぶ「足袋」といえば 「足袋」ですし、マラソンで使ったから 「マラソン足袋」ですし、金栗さんが関わったから 「金栗足袋」ですし(笑)。
川見店主:
マラソンを走るために作った足袋が 「マラソン足袋」。「マラソン足袋」から「こはぜ」を取り除いてバージョンアップしたのが 「金栗足袋」。だから、「金栗足袋」は「マラソン足袋」シリーズの「商品名」って理解すればいいんじゃないかな?
――:
それぞれを宣伝風にPRするなら、
「1911年。足袋は『マラソン足袋』へ進化!」
「1919年。マラソン足袋のニューモデル『金栗足袋』誕生!」
という感じになりますか(笑)。
川見店主:
いいんじゃないですか(笑)
日本のマラソンシューズ「第一号」
――:
さて、 1953年(昭和28)、アメリカ・ボストンマラソンにおいては、 山田敬蔵選手が大会新記録(当時)で優勝します。
川見店主:
このレースで山田敬蔵さんは、「マラソン足袋」ではなく 「マラソンシューズ」で走っておられます。
――:
つま先の部分が、二股に分かれた「足袋」タイプではなく、丸くなった「シューズ」で走られたと。
川見店主:
これが、 日本マラソンシューズ第一号とされる「カナグリシューズ」ですね。
――:
1951年ボストンマラソン優勝の 田中茂樹選手が使用して走ったのは 「金栗足袋」でしたよね。1951年から1953年に、「足袋」タイプから「シューズ」に変わった。この2年間で、黒坂さんのモノづくりには、どんな変化があったのでしょうね。
川見店主:
「この2年間」というよりも、もっと以前から変化の兆(きざ)しはあったんだと思います。
――:
ほお、そうですか。
川見店主:
「マラソン足袋」の利点は、足指がしっかり地面をとらえて走れることです。しかし、つま先が二股に分かれている箇所、つまり、親指と人差し指の間の皮膚は、擦れて靴ずれして、大変だったんじゃないかと思います。
――:
あー、そこは痛そうです。
川見店主:
ずっと試行錯誤を繰り返しておられた金栗さんと黒坂さんですから、シューズのことも研究されていたはずです。しかし、「金栗足袋」が初めて世界を制した1936年ベルリン五輪以降、時代が戦争へと突入するので、なかなか「マラソンシューズ」をかたちにできなかったのかもしれません。
――:
終戦後もアメリカの統制下にあった日本です。物資の統制が解除されて、日本の経済がまわりはじめるのが1950年です。
川見店主:
やっと自由にものづくりができるようになった1950年頃にはすでに、「マラソンシューズ」の試作品は、つくりはじめておられたかもしれませんね。 ひょっとしたら1951年の田中選手の時にはすでに、「マラソンシューズ」は存在していたかもしれませんよ。
――:
でも、田中選手は「金栗足袋」で走りましたよね。その辺は、どう考えますか?
川見店主:
まだ満足のいく「マラソンシューズ」ができていなかった。もしくは、田中選手が「マラソンシューズ」を選ばなかった……。「金栗足袋」の輝かしい実績は長く続きましたから、「足袋」から「シューズ」への移行には、作り手にも、選手にも、意識の変革が必要だったと思います。
――:
1953年ボストンマラソンでの「マラソンシューズ」使用は、黒坂さんにとっても大きな賭けだったでしょうね。山田さんの優勝には、黒坂さんも大変喜ばれたでしょうね。当時を記録するのが、1954年のこちらの英字新聞です。
川見店主:
黒坂さんの新たな技術が、またもや世界を制したのですからね。「マラソンシューズ」でも世界に勝てることを証明できた。もちろん、この大会までにも黒坂さんは「マラソンシューズ」開発のための試行錯誤を続けておられたでしょうし、山田さんも「マラソンシューズ」での試走をされていたと思います。その中で、ある程度の成果を感じられてはいたのでしょう。でも、やはり、世界的な大会で優勝したという事実が大きいし、意味があるのだと思います。
「先生、またひとつレースを走ったよ」
――:
山田敬蔵さんは、金栗さん自らが発掘し、育てられた選手なんですね。
川見店主:
山田さんのボストンマラソン優勝は、金栗さんにとっても、どれほどうれしいことだったでしょうね。
――:
1953年当時、金栗さんは62歳、黒坂さんは72歳です。
川見店主:
1953年のボストンマラソンは、金栗さんにとってはこれまでの指導方法の、黒坂さんにとってはこれまでのシューズ作りの、それぞれの集大成の大会になった気がします。
――:
2002年(平成14)に金栗さんの故郷である熊本県の玉名歴史博物館で「金栗四三展」が行われました。そこに山田さんが寄稿された 『金栗先生との思い出』という文章の中に、レース後のことが語られています。
先生は私のもとへ駆け寄り、『山田君ありがとう、ありがとう』と自分のことのように涙を流して喜ばれました。
2002年玉名歴史博物館「金栗四三展」より
(中略)
それから先生は『これからも走れるだけ走ってくれ』『走れなくなっても招待を受けることがあったらその招待は受けなさい』『たとえ小さい人であっても努力することによって日本一、世界一になれるといういい見本になる』と言われました。
川見店主:
山田さんはその後の生涯を、おいくつになられても、金栗さんの言葉のままに、走り続けておられますね。
――:
『(金栗)先生の代わりに走れるだけ走ってやれ』
そう思って走り続けてこられたそうです。文章は、こんな言葉で締めくくられています。
『先生、また一つレースを走ったよ』
川見店主:
崇高(すうこう)な人生を仰ぎ見る思いです。山田さんが優勝したからこそ、金栗さんと黒坂さんの偉大さを証明できた。山田さんて、時に選ばれた人なんでしょうね。
オニツカの「マラソン足袋」
――:
さて、私たちはここまで、ハリマヤが歩んできた「マラソン足袋」から「マラソンシューズ」への進化の道のりをたどってきました。ここで、ちょっと解決しておきたい問題があります。
川見店主:
なんでしょうか?
――:
以前、アシックスがホームページで公開していた 「60周年~アシックス・ヒストリー」では、1953年、同社(当時オニツカ)にとっての「マラソン足袋」第一号を発売し、はやくも同年内にマラソンシューズ「マラップ」を発売したと紹介していました。
川見店主:
鬼塚喜八郎(おにつか・きはちろう)さんが、 「鬼塚株式会社」を創業されたのが、1949年(昭和24)です。今や世界的企業となったアシックスも、創業間もないオニツカの時代には、ハリマヤの後を追うように「マラソン足袋」や「マラソンシューズ」を開発しているんですね。
――:
ただ、ハリマヤとアシックスの歴史が混同されることが多いみたいで。1951年ボストンマラソン優勝の田中茂樹選手はオニツカのマラソン足袋で走ったとか、後にハリマヤがアシックスになったとかいう誤解が生じることがあるみたいです。
川見店主:
ハリマヤの存在と歴史を知らなければ、アシックスと混同するかもしれませんね。マラソン足袋も、マラソンシューズも、はじまりはハリマヤですし、ハリマヤとアシックスは、まったく別の会社です。
――:
それにしても、1953年に初めて「マラソン足袋」をつくったオニツカが、同年内に早速マラソンシューズ「マラップ」をつくったというのは、展開が速いですね。
川見店主:
山田さんの「カナグリシューズ」での優勝が少なからず影響しているのでしょうかね。それに、鬼塚さんのことですから、マラソン「足袋」から「シューズ」への時代の変化は、敏感に察知しておられたとは思いますけれど。
新しい時代を開いたカナグリシューズ
――:
鬼塚さんは自伝 『私心がないから皆が活きる』において、当時のことをこんな風に述べておられます。
マラソン選手の悩みのタネは、足にできる底マメだった。
鬼塚喜八郎「私心がないから皆が活きる」
日本のマラソンシューズは、戦前は足袋だった。
明治45年、ストックホルム五輪にはじめてマラソンに参加した金栗四三氏がゴム底の地下足袋『金栗タビ』を考案し、これがずっと日本マラソン界では中心的に使用されていた。
戦後は、ズック靴型のシューズに変わり、やがて合成ゴムスポンジ底の軽いシューズに変わるなど改良の跡はみせてはきていた。
が、依然として選手の足にマメができる。
42.195kmも走り続けるのだから、マメができるのは当たりまえといってしまえばそれまでだが、なぜなのか?
マメのできないクツは不可能なのか?
そして、あるマラソン選手とこんな会話を交わす。
鬼塚さん、このマメが苦にならなくなってはじめて一流のマラソンランナーになれるんですよ。
じゃ、マメのできないクツをつくったらどうだろう?
そりゃ、素晴らしいだろうな。でも、それは夢でしょうね。
で、鬼塚さんは、決意されたそうです。
よし!オレがマメのできないクツをつくってやろう!
その後の鬼塚さんは、独自でマラソンシューズの研究開発を進められ、できあがったのが、 1959年発売の空冷式マラソンシューズ「マジックランナー」です。
川見店主:
1968年メキシコ五輪で銀メダルの君原健二選手が使用したのも、この「マジックランナー」です。このシューズのシリーズは、長年にわたってベストセラーになったんですね。1960~70年代に陸上競技をしていた人なら、知らない人はいません。私が高校生の頃も、顧問の先生が履いていました。みんなの憧れのシューズでした。
――:
オニツカの歩みからも、1953年を境にして、時代はマラソン「足袋」から「シューズ」へと一気に変わっていったことがわかります。
川見店主:
その新しい時代の扉を開けたのが、1953年ボストンマラソンで山田さんが優勝された、ハリマヤの「マラソンシューズ」であると思います。
――:
1953年は、マラソンの主流が「足袋」から「シューズ」へと移行する一大転換期だったのですね。
川見店主:
そう記憶されてもいいんじゃないでしょうか。 ここを大きなターニングポイントとして、日本の新しい「ランニングシューズ」の歴史がはじまったのです。
(初出2013年03月07日)
【第8章】- その3
オリンピアサンワーズ二代目店主
川見あつこが鑑定する
金栗四三の
マラソンシューズ
1912年、金栗四三さんはストックホルム五輪に出場。
それからちょうど100年が経過した2012年、金栗さんの故郷・熊本県玉名市で「謎のシューズ」が発見され、テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」に出品されました。
鑑定を依頼されたのは、オリンピアサンワーズ二代目店主・川見あつこ。
そのシューズに秘められた真実とは?
伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」と、日本マラソンとランニングシューズの歴史を探りながら、川見店主が「謎のシューズ」の正体に迫ります。
【全5回】
- 金栗四三とハリマヤ
- 世界を制した金栗足袋の時代
- 時代を開いたカナグリシューズ(このページ)
- ハリマヤシューズの「秘密」
- 鑑定・金栗四三のマラソンシューズ
その3
新しい時代の扉を開いた
1953年のカナグリシューズ
マラソン足袋の「名称」について
――:
ここで、マラソン足袋の進化を整理しておきます。
- 1903年:播磨屋足袋店創業
- 1911年:マラソン足袋開発
- 1919年:金栗足袋開発
- 1936年:ベルリン五輪、金栗足袋で優勝
- 1951年:ボストンマラソン、金栗足袋で優勝
いつもややこしくなるのが、マラソン足袋の「名称」です。
ぜんぶ「足袋」といえば 「足袋」ですし、マラソンで使ったから 「マラソン足袋」ですし、金栗さんが関わったから 「金栗足袋」ですし(笑)。
川見店主:
マラソンを走るために作った足袋が 「マラソン足袋」。
「マラソン足袋」から「こはぜ」を取り除いてバージョンアップしたのが 「金栗足袋」。
だから、「金栗足袋」は「マラソン足袋」シリーズの「商品名」って理解すればいいんじゃないかな?
――:
それぞれを宣伝風にPRするなら、
「1911年。足袋は『マラソン足袋』へ進化!」
「1919年。マラソン足袋のニューモデル『金栗足袋』誕生!」
という感じになりますか(笑)。
川見店主:
いいんじゃないですか(笑)
日本のマラソンシューズ「第一号」
――:
さて、 1953年(昭和28)、アメリカ・ボストンマラソンにおいては、 山田敬蔵選手が大会新記録(当時)で優勝します。
川見店主:
このレースで山田敬蔵さんは、「マラソン足袋」ではなく 「マラソンシューズ」で走っておられます。
――:
つま先の部分が、二股に分かれた「足袋」タイプではなく、丸くなった「シューズ」で走られたと。
川見店主:
これが、 日本マラソンシューズ第一号とされる「カナグリシューズ」ですね。
――:
1951年ボストンマラソン優勝の 田中茂樹選手が使用して走ったのは 「金栗足袋」でしたよね。
1951年から1953年に、「足袋」タイプから「シューズ」に変わった。
この2年間で、黒坂さんのモノづくりには、どんな変化があったのでしょうね。
川見店主:
「この2年間」というよりも、もっと以前から変化の兆(きざ)しはあったんだと思います。
――:
ほお、そうですか。
川見店主:
「マラソン足袋」の利点は、足指がしっかり地面をとらえて走れることです。
しかし、つま先が二股に分かれている箇所、つまり、親指と人差し指の間の皮膚は、擦れて靴ずれして、大変だったんじゃないかと思います。
――:
あー、そこは痛そうです。
川見店主:
ずっと試行錯誤を繰り返しておられた金栗さんと黒坂さんですから、シューズのことも研究されていたはずです。
しかし、「金栗足袋」が初めて世界を制した1936年ベルリン五輪以降、時代が戦争へと突入するので、なかなか「マラソンシューズ」をかたちにできなかったのかもしれません。
――:
終戦後もアメリカの統制下にあった日本です。
物資の統制が解除されて、日本の経済がまわりはじめるのが1950年です。
川見店主:
やっと自由にものづくりができるようになった1950年頃にはすでに、「マラソンシューズ」の試作品は、つくりはじめておられたかもしれませんね。
ひょっとしたら1951年の田中選手の時にはすでに、「マラソンシューズ」は存在していたかもしれませんよ。
――:
でも、田中選手は「金栗足袋」で走りましたよね。
その辺は、どう考えますか?
川見店主:
まだ満足のいく「マラソンシューズ」ができていなかった。
もしくは、田中選手が「マラソンシューズ」を選ばなかった……。
「金栗足袋」の輝かしい実績は長く続きましたから、「足袋」から「シューズ」への移行には、作り手にも、選手にも、意識の変革が必要だったと思います。
――:
1953年ボストンマラソンでの「マラソンシューズ」使用は、黒坂さんにとっても大きな賭けだったでしょうね。
山田さんの優勝には、黒坂さんも大変喜ばれたでしょうね。
当時を記録するのが、1954年のこちらの英字新聞です。
川見店主:
黒坂さんの新たな技術が、またもや世界を制したのですからね。
「マラソンシューズ」でも世界に勝てることを証明できた。
もちろん、この大会までにも黒坂さんは「マラソンシューズ」開発のための試行錯誤を続けておられたでしょうし、山田さんも「マラソンシューズ」での試走をされていたと思います。
その中で、ある程度の成果を感じられてはいたのでしょう。
でも、やはり、世界的な大会で優勝したという事実が大きいし、意味があるのだと思います。
「先生、またひとつレースを走ったよ」
――:
山田敬蔵さんは、金栗さん自らが発掘し、育てられた選手なんですね。
川見店主:
山田さんのボストンマラソン優勝は、金栗さんにとっても、どれほどうれしいことだったでしょうね。
――:
1953年当時、金栗さんは62歳、黒坂さんは72歳です。
川見店主:
1953年のボストンマラソンは、金栗さんにとってはこれまでの指導方法の、黒坂さんにとってはこれまでのシューズ作りの、それぞれの集大成の大会になった気がします。
――:
2002年(平成14)に金栗さんの故郷である熊本県の玉名歴史博物館で「金栗四三展」が行われました。
そこに山田さんが寄稿された 『金栗先生との思い出』という文章の中に、レース後のことが語られています。
先生は私のもとへ駆け寄り、『山田君ありがとう、ありがとう』と自分のことのように涙を流して喜ばれました。
2002年玉名歴史博物館「金栗四三展」より
(中略)
それから先生は『これからも走れるだけ走ってくれ』『走れなくなっても招待を受けることがあったらその招待は受けなさい』『たとえ小さい人であっても努力することによって日本一、世界一になれるといういい見本になる』と言われました。
川見店主:
山田さんはその後の生涯を、おいくつになられても、金栗さんの言葉のままに、走り続けておられますね。
――:
「(金栗)先生の代わりに走れるだけ走ってやれ」
そう思って走り続けてこられたそうです。文章は、こんな言葉で締めくくられています。
「先生、また一つレースを走ったよ」
川見店主:
崇高(すうこう)な人生を仰ぎ見る思いです。
山田さんが優勝したからこそ、金栗さんと黒坂さんの偉大さを証明できた。
山田さんて、時に選ばれた人なんでしょうね。
ハリマヤを追ったオニツカ
――:
さて、私たちはここまで、ハリマヤが歩んできた「マラソン足袋」から「マラソンシューズ」への進化の道のりをたどってきました。
ここで、ちょっと解決しておきたい問題があります。
川見店主:
なんでしょうか?
――:
以前、アシックスがホームページで公開していた 「60周年~アシックス・ヒストリー」では、1953年、同社(当時オニツカ)にとっての「マラソン足袋」第一号を発売し、はやくも同年内にマラソンシューズ「マラップ」を発売したと紹介していました。
川見店主:
鬼塚喜八郎(おにつか・きはちろう)さんが、 「鬼塚株式会社」を創業されたのが、1949年(昭和24)です。
今や世界的企業となったアシックスも、創業間もないオニツカの時代には、ハリマヤの後を追うように「マラソン足袋」や「マラソンシューズ」を開発しているんですね。
――:
ただ、ハリマヤとアシックスの歴史が混同されることが多いみたいで。
1951年ボストンマラソン優勝の田中茂樹選手はオニツカのマラソン足袋で走ったとか、後にハリマヤがアシックスになったとかいう誤解が生じることがあるみたいです。
川見店主:
ハリマヤの存在と歴史を知らなければ、アシックスと混同するかもしれませんね。
マラソン足袋も、マラソンシューズも、はじまりはハリマヤですし、ハリマヤとアシックスは、まったく別の会社です。
――:
それにしても、1953年に初めて「マラソン足袋」をつくったオニツカが、同年内に早速マラソンシューズ「マラップ」をつくったというのは、展開が速いですね。
川見店主:
山田さんの「カナグリシューズ」での優勝が少なからず影響しているのでしょうかね。
それに、鬼塚さんのことですから、マラソン「足袋」から「シューズ」への時代の変化は、敏感に察知しておられたとは思いますけれど。
新しい時代を開いたカナグリシューズ
――:
鬼塚さんは自伝 『私心がないから皆が活きる』において、当時のことをこんな風に述べておられます。
マラソン選手の悩みのタネは、足にできる底マメだった。
鬼塚喜八郎「私心がないから皆が活きる」
日本のマラソンシューズは、戦前は足袋だった。
明治45年、ストックホルム五輪にはじめてマラソンに参加した金栗四三氏がゴム底の地下足袋『金栗タビ』を考案し、これがずっと日本マラソン界では中心的に使用されていた。
戦後は、ズック靴型のシューズに変わり、やがて合成ゴムスポンジ底の軽いシューズに変わるなど改良の跡はみせてはきていた。
が、依然として選手の足にマメができる。
42.195kmも走り続けるのだから、マメができるのは当たりまえといってしまえばそれまでだが、なぜなのか?
マメのできないクツは不可能なのか?
そして、あるマラソン選手とこんな会話を交わす。
鬼塚さん、このマメが苦にならなくなってはじめて一流のマラソンランナーになれるんですよ。
じゃ、マメのできないクツをつくったらどうだろう?
そりゃ、素晴らしいだろうな。
でも、それは夢でしょうね。
で、鬼塚さんは、決意されたそうです。
よし!
オレがマメのできないクツをつくってやろう!
その後の鬼塚さんは、独自でマラソンシューズの研究開発を進められ、できあがったのが、 1959年発売の空冷式マラソンシューズ「マジックランナー」です。
川見店主:
1968年メキシコ五輪で銀メダルの君原健二選手が使用したのも、この「マジックランナー」です。
このシューズのシリーズは、長年にわたってベストセラーになったんですね。
1960~70年代に陸上競技をしていた人なら、知らない人はいません。
私が高校生の頃も、顧問の先生が履いていました。
みんなの憧れのシューズでした。
――:
オニツカの歩みからも、1953年を境にして、時代はマラソン「足袋」から「シューズ」へと一気に変わっていったことがわかります。
川見店主:
その新しい時代の扉を開けたのが、1953年ボストンマラソンで山田さんが優勝された、ハリマヤの「マラソンシューズ」であると思います。
――:
1953年は、マラソンの主流が「足袋」から「シューズ」へと移行する一大転換期だったのですね。
川見店主:
そう記憶されてもいいんじゃないでしょうか。
ここを大きなターニングポイントとして、日本の新しい「ランニングシューズ」の歴史がはじまったのです。
(初出2013年03月07日)
Dedicated to the memories of Shinsaku Kurosaka.
Special thanks to Tomiyo Fukuda.
Produced by Olympia Sunwards
オーダーメイドを極めた
最高級のインソール技術
当店が作成するオーダーメイドのインソール(中敷)は、 アメリカに本社のあるアムフィット社製。あなたの足型をインソール上に再現する画期的なシステムが足とシューズのジャストフィットを実現します。パフォーマンスアップ、ケガや故障の防止、疲労軽減、アライメント補正など多くの効果が実証されています。
オーダーメイドを極めた
最高級のインソール技術
当店が作成するフルオーダーメイドのインソール(中敷)は、 アメリカに本社のあるアムフィット社製。あなたの足型をインソール上に再現する画期的なシステムが足とシューズのジャストフィットを実現します。パフォーマンスアップ、ケガや故障の防止、疲労軽減、アライメント補正など多くの効果が実証されています。
どうぞ
なんでもお気軽に
ご相談ください。
どうぞ
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アクセス
営業日
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