【第8章】- その3

オリンピアサンワーズ二代目店主
川見あつこ

金栗四三の
マラソンシューズ
を鑑定する

【全5回】

金栗四三のマラソンシューズ

その3
新しい時代の扉を開いた
1953年のカナグリシューズ

――:
ここで、マラソン足袋の進化を整理しておきます。

  1. 1903年:播磨屋足袋店創業
  2. 1911年:マラソン足袋開発
  3. 1919年:金栗足袋開発
  4. 1936年:ベルリン五輪、金栗足袋で優勝
  5. 1951年:ボストンマラソン、金栗足袋で優勝

いつもややこしくなるのが、マラソン足袋の「名称」です。ぜんぶ「足袋」といえば 「足袋」ですし、マラソンで使ったから 「マラソン足袋」ですし、金栗さんが関わったから 「金栗足袋」ですし(笑)。

川見店主
マラソンを走るために作った足袋が 「マラソン足袋」。「マラソン足袋」から「こはぜ」を取り除いてバージョンアップしたのが 「金栗足袋」。だから、「金栗足袋」は「マラソン足袋」シリーズの「商品名」って理解すればいいんじゃないかな?

オリンピアサンワーズ川見あつこ店主
二代目店主
川見あつこ

――:
それぞれを宣伝風にPRするなら、
「1911年。足袋は『マラソン足袋』へ進化!」
「1919年。マラソン足袋のニューモデル『金栗足袋』誕生!」
という感じになりますか(笑)。

川見店主
いいんじゃないですか(笑)

――:
さて、 1953年(昭和28)、アメリカ・ボストンマラソンにおいては、 山田敬蔵選手が大会新記録(当時)で優勝します。

川見店主
このレースで山田敬蔵さんは、「マラソン足袋」ではなく 「マラソンシューズ」で走っておられます。

――:
つま先の部分が、二股に分かれた「足袋」タイプではなく、丸くなった「シューズ」で走られたと。

川見店主
これが、 日本マラソンシューズ第一号とされる「カナグリシューズ」ですね。

日本のマラソンシューズ「第一号」とされる「カナグリシューズ」(1989年度ハリマヤカタログから)

――:
1951年ボストンマラソン優勝の 田中茂樹選手が使用して走ったのは 「金栗足袋」でしたよね。1951年から1953年に、「足袋」タイプから「シューズ」に変わった。この2年間で、黒坂さんのモノづくりには、どんな変化があったのでしょうね。

川見店主
「この2年間」というよりも、もっと以前から変化の兆(きざ)しはあったんだと思います。

――:
ほお、そうですか。

川見店主
「マラソン足袋」の利点は、足指がしっかり地面をとらえて走れることです。しかし、つま先が二股に分かれている箇所、つまり、親指と人差し指の間の皮膚は、擦れて靴ずれして、大変だったんじゃないかと思います。

――:
あー、そこは痛そうです。

川見店主
ずっと試行錯誤を繰り返しておられた金栗さんと黒坂さんですから、シューズのことも研究されていたはずです。しかし、「金栗足袋」が初めて世界を制した1936年ベルリン五輪以降、時代が戦争へと突入するので、なかなか「マラソンシューズ」をかたちにできなかったのかもしれません。

――:
終戦後もアメリカの統制下にあった日本です。物資の統制が解除されて、日本の経済がまわりはじめるのが1950年です。

川見店主
やっと自由にものづくりができるようになった1950年頃にはすでに、「マラソンシューズ」の試作品は、つくりはじめておられたかもしれませんね。 ひょっとしたら1951年の田中選手の時にはすでに、「マラソンシューズ」は存在していたかもしれませんよ。

――:
でも、田中選手は「金栗足袋」で走りましたよね。その辺は、どう考えますか?

川見店主
まだ満足のいく「マラソンシューズ」ができていなかった。もしくは、田中選手が「マラソンシューズ」を選ばなかった……。「金栗足袋」の輝かしい実績は長く続きましたから、「足袋」から「シューズ」への移行には、作り手にも、選手にも、意識の変革が必要だったと思います。

――:
1953年ボストンマラソンでの「マラソンシューズ」使用は、黒坂さんにとっても大きな賭けだったでしょうね。山田さんの優勝には、黒坂さんも大変喜ばれたでしょうね。当時を記録するのが、1954年のこちらの英字新聞です。

1954年頃の英字新聞(黒坂さんの曾孫さんご提供)

川見店主
黒坂さんの新たな技術が、またもや世界を制したのですからね。「マラソンシューズ」でも世界に勝てることを証明できた。もちろん、この大会までにも黒坂さんは「マラソンシューズ」開発のための試行錯誤を続けておられたでしょうし、山田さんも「マラソンシューズ」での試走をされていたと思います。その中で、ある程度の成果を感じられてはいたのでしょう。でも、やはり、世界的な大会で優勝したという事実が大きいし、意味があるのだと思います。

――:
山田敬蔵さんは、金栗さん自らが発掘し、育てられた選手なんですね。

川見店主
山田さんのボストンマラソン優勝は、金栗さんにとっても、どれほどうれしいことだったでしょうね。

1953年ボストンマラソン優勝時の山田敬蔵選手。足もとにはハリマヤの「カナグリシューズ」

――:
1953年当時、金栗さんは62歳、黒坂さんは72歳です。

川見店主
1953年のボストンマラソンは、金栗さんにとってはこれまでの指導方法の、黒坂さんにとってはこれまでのシューズ作りの、それぞれの集大成の大会になった気がします。

――:
2002年(平成14)に金栗さんの故郷である熊本県の玉名歴史博物館で「金栗四三展」が行われました。そこに山田さんが寄稿された 『金栗先生との思い出』という文章の中に、レース後のことが語られています。

先生は私のもとへ駆け寄り、『山田君ありがとう、ありがとう』と自分のことのように涙を流して喜ばれました。
(中略)
それから先生は『これからも走れるだけ走ってくれ』『走れなくなっても招待を受けることがあったらその招待は受けなさい』『たとえ小さい人であっても努力することによって日本一、世界一になれるといういい見本になる』と言われました。

2002年玉名歴史博物館「金栗四三展」より

川見店主
山田さんはその後の生涯を、おいくつになられても、金栗さんの言葉のままに、走り続けておられますね。

――:
『(金栗)先生の代わりに走れるだけ走ってやれ』
そう思って走り続けてこられたそうです。文章は、こんな言葉で締めくくられています。
『先生、また一つレースを走ったよ』

川見店主
崇高(すうこう)な人生を仰ぎ見る思いです。山田さんが優勝したからこそ、金栗さんと黒坂さんの偉大さを証明できた。山田さんて、時に選ばれた人なんでしょうね。

――:
さて、私たちはここまで、ハリマヤが歩んできた「マラソン足袋」から「マラソンシューズ」への進化の道のりをたどってきました。ここで、ちょっと解決しておきたい問題があります。

川見店主
なんでしょうか?

――:
以前、アシックスがホームページで公開していた 「60周年~アシックス・ヒストリー」では、1953年、同社(当時オニツカ)にとっての「マラソン足袋」第一号を発売し、はやくも同年内にマラソンシューズ「マラップ」を発売したと紹介していました。

川見店主
鬼塚喜八郎(おにつか・きはちろう)さんが、 「鬼塚株式会社」を創業されたのが、1949年(昭和24)です。今や世界的企業となったアシックスも、創業間もないオニツカの時代には、ハリマヤの後を追うように「マラソン足袋」や「マラソンシューズ」を開発しているんですね。

――:
ただ、ハリマヤとアシックスの歴史が混同されることが多いみたいで。1951年ボストンマラソン優勝の田中茂樹選手はオニツカのマラソン足袋で走ったとか、後にハリマヤがアシックスになったとかいう誤解が生じることがあるみたいです。

川見店主
ハリマヤの存在と歴史を知らなければ、アシックスと混同するかもしれませんね。マラソン足袋も、マラソンシューズも、はじまりはハリマヤですし、ハリマヤとアシックスは、まったく別の会社です。

――:
それにしても、1953年に初めて「マラソン足袋」をつくったオニツカが、同年内に早速マラソンシューズ「マラップ」をつくったというのは、展開が速いですね。

川見店主
山田さんの「カナグリシューズ」での優勝が少なからず影響しているのでしょうかね。それに、鬼塚さんのことですから、マラソン「足袋」から「シューズ」への時代の変化は、敏感に察知しておられたとは思いますけれど。

【私心がないから皆が活きる】
鬼塚さんは、自ら作ったシューズをかばんに詰め込み、日本中の小売店を歩き回っては販売網を拡大した。地方で宿泊するお金がない時は、そのかばんを枕にして、駅のホームで寝たのだという。裸一貫で戦後の焼け野原から立ち上がり世界のアシックスを築きあげた男の、波乱万丈など根性一代記。
(日本実業出版社・昭和62発行)

――:
鬼塚さんは自伝 『私心がないから皆が活きる』において、当時のことをこんな風に述べておられます。

マラソン選手の悩みのタネは、足にできる底マメだった。
日本のマラソンシューズは、戦前は足袋だった。
明治45年、ストックホルム五輪にはじめてマラソンに参加した金栗四三氏がゴム底の地下足袋『金栗タビ』を考案し、これがずっと日本マラソン界では中心的に使用されていた。
戦後は、ズック靴型のシューズに変わり、やがて合成ゴムスポンジ底の軽いシューズに変わるなど改良の跡はみせてはきていた。
が、依然として選手の足にマメができる。
42.195kmも走り続けるのだから、マメができるのは当たりまえといってしまえばそれまでだが、なぜなのか?
マメのできないクツは不可能なのか?

鬼塚喜八郎「私心がないから皆が活きる」

そして、あるマラソン選手とこんな会話を交わす。

鬼塚さん、このマメが苦にならなくなってはじめて一流のマラソンランナーになれるんですよ。

鬼塚さん

じゃ、マメのできないクツをつくったらどうだろう?

そりゃ、素晴らしいだろうな。でも、それは夢でしょうね。

で、鬼塚さんは、決意されたそうです。

鬼塚さん

よし!オレがマメのできないクツをつくってやろう!

その後の鬼塚さんは、独自でマラソンシューズの研究開発を進められ、できあがったのが、 1959年発売の空冷式マラソンシューズ「マジックランナー」です。

「空冷式マラソンシューズ」マジックランナー・シリーズ
(オリンピアサンワーズ蔵)

川見店主
1968年メキシコ五輪で銀メダルの君原健二選手が使用したのも、この「マジックランナー」です。このシューズのシリーズは、長年にわたってベストセラーになったんですね。1960~70年代に陸上競技をしていた人なら、知らない人はいません。私が高校生の頃も、顧問の先生が履いていました。みんなの憧れのシューズでした。

――:
オニツカの歩みからも、1953年を境にして、時代はマラソン「足袋」から「シューズ」へと一気に変わっていったことがわかります。

川見店主
その新しい時代の扉を開けたのが、1953年ボストンマラソンで山田さんが優勝された、ハリマヤの「マラソンシューズ」であると思います。

――:
1953年は、マラソンの主流が「足袋」から「シューズ」へと移行する一大転換期だったのですね。

川見店主
そう記憶されてもいいんじゃないでしょうか。 ここを大きなターニングポイントとして、日本の新しい「ランニングシューズ」の歴史がはじまったのです。

【第8章】- その3

オリンピアサンワーズ二代目店主
川見あつこが鑑定する

金栗四三の
マラソンシューズ

【全5回】

金栗四三のマラソンシューズ

その3
新しい時代の扉を開いた
1953年のカナグリシューズ

――:
ここで、マラソン足袋の進化を整理しておきます。

  1. 1903年:播磨屋足袋店創業
  2. 1911年:マラソン足袋開発
  3. 1919年:金栗足袋開発
  4. 1936年:ベルリン五輪、金栗足袋で優勝
  5. 1951年:ボストンマラソン、金栗足袋で優勝

いつもややこしくなるのが、マラソン足袋の「名称」です。
ぜんぶ「足袋」といえば 「足袋」ですし、マラソンで使ったから 「マラソン足袋」ですし、金栗さんが関わったから 「金栗足袋」ですし(笑)。

川見店主
マラソンを走るために作った足袋が 「マラソン足袋」。
「マラソン足袋」から「こはぜ」を取り除いてバージョンアップしたのが 「金栗足袋」。
だから、「金栗足袋」は「マラソン足袋」シリーズの「商品名」って理解すればいいんじゃないかな?

オリンピアサンワーズ川見あつこ店主
二代目店主
川見あつこ

――:
それぞれを宣伝風にPRするなら、
「1911年。足袋は『マラソン足袋』へ進化!」
「1919年。マラソン足袋のニューモデル『金栗足袋』誕生!」
という感じになりますか(笑)。

川見店主
いいんじゃないですか(笑)

――:
さて、 1953年(昭和28)、アメリカ・ボストンマラソンにおいては、 山田敬蔵選手が大会新記録(当時)で優勝します。

川見店主
このレースで山田敬蔵さんは、「マラソン足袋」ではなく 「マラソンシューズ」で走っておられます。

――:
つま先の部分が、二股に分かれた「足袋」タイプではなく、丸くなった「シューズ」で走られたと。

川見店主
これが、 日本マラソンシューズ第一号とされる「カナグリシューズ」ですね。

日本のマラソンシューズ「第一号」とされる「カナグリシューズ」(1989年度ハリマヤカタログから)

――:
1951年ボストンマラソン優勝の 田中茂樹選手が使用して走ったのは 「金栗足袋」でしたよね。
1951年から1953年に、「足袋」タイプから「シューズ」に変わった。
この2年間で、黒坂さんのモノづくりには、どんな変化があったのでしょうね。

川見店主
「この2年間」というよりも、もっと以前から変化の兆(きざ)しはあったんだと思います。

――:
ほお、そうですか。

川見店主
「マラソン足袋」の利点は、足指がしっかり地面をとらえて走れることです。
しかし、つま先が二股に分かれている箇所、つまり、親指と人差し指の間の皮膚は、擦れて靴ずれして、大変だったんじゃないかと思います。

――:
あー、そこは痛そうです。

川見店主
ずっと試行錯誤を繰り返しておられた金栗さんと黒坂さんですから、シューズのことも研究されていたはずです。
しかし、「金栗足袋」が初めて世界を制した1936年ベルリン五輪以降、時代が戦争へと突入するので、なかなか「マラソンシューズ」をかたちにできなかったのかもしれません。

――:
終戦後もアメリカの統制下にあった日本です。
物資の統制が解除されて、日本の経済がまわりはじめるのが1950年です。

川見店主
やっと自由にものづくりができるようになった1950年頃にはすでに、「マラソンシューズ」の試作品は、つくりはじめておられたかもしれませんね。 
ひょっとしたら1951年の田中選手の時にはすでに、「マラソンシューズ」は存在していたかもしれませんよ。

――:
でも、田中選手は「金栗足袋」で走りましたよね。
その辺は、どう考えますか?

川見店主
まだ満足のいく「マラソンシューズ」ができていなかった。
もしくは、田中選手が「マラソンシューズ」を選ばなかった……。
「金栗足袋」の輝かしい実績は長く続きましたから、「足袋」から「シューズ」への移行には、作り手にも、選手にも、意識の変革が必要だったと思います。

――:
1953年ボストンマラソンでの「マラソンシューズ」使用は、黒坂さんにとっても大きな賭けだったでしょうね。
山田さんの優勝には、黒坂さんも大変喜ばれたでしょうね。
当時を記録するのが、1954年のこちらの英字新聞です。

1954年頃の英字新聞(黒坂さんの曾孫さんご提供)

川見店主
黒坂さんの新たな技術が、またもや世界を制したのですからね。
「マラソンシューズ」でも世界に勝てることを証明できた。
もちろん、この大会までにも黒坂さんは「マラソンシューズ」開発のための試行錯誤を続けておられたでしょうし、山田さんも「マラソンシューズ」での試走をされていたと思います。
その中で、ある程度の成果を感じられてはいたのでしょう。
でも、やはり、世界的な大会で優勝したという事実が大きいし、意味があるのだと思います。

――:
山田敬蔵さんは、金栗さん自らが発掘し、育てられた選手なんですね。

川見店主
山田さんのボストンマラソン優勝は、金栗さんにとっても、どれほどうれしいことだったでしょうね。

1953年ボストンマラソン優勝時の山田敬蔵選手。足もとにはハリマヤの「カナグリシューズ」

――:
1953年当時、金栗さんは62歳、黒坂さんは72歳です。

川見店主
1953年のボストンマラソンは、金栗さんにとってはこれまでの指導方法の、黒坂さんにとってはこれまでのシューズ作りの、それぞれの集大成の大会になった気がします。

――:
2002年(平成14)に金栗さんの故郷である熊本県の玉名歴史博物館で「金栗四三展」が行われました。
そこに山田さんが寄稿された 『金栗先生との思い出』という文章の中に、レース後のことが語られています。

先生は私のもとへ駆け寄り、『山田君ありがとう、ありがとう』と自分のことのように涙を流して喜ばれました。
(中略)
それから先生は『これからも走れるだけ走ってくれ』『走れなくなっても招待を受けることがあったらその招待は受けなさい』『たとえ小さい人であっても努力することによって日本一、世界一になれるといういい見本になる』と言われました。

2002年玉名歴史博物館「金栗四三展」より

川見店主
山田さんはその後の生涯を、おいくつになられても、金栗さんの言葉のままに、走り続けておられますね。

――:
「(金栗)先生の代わりに走れるだけ走ってやれ」

そう思って走り続けてこられたそうです。文章は、こんな言葉で締めくくられています。

「先生、また一つレースを走ったよ」

川見店主
崇高(すうこう)な人生を仰ぎ見る思いです。
山田さんが優勝したからこそ、金栗さんと黒坂さんの偉大さを証明できた。
山田さんて、時に選ばれた人なんでしょうね。

――:
さて、私たちはここまで、ハリマヤが歩んできた「マラソン足袋」から「マラソンシューズ」への進化の道のりをたどってきました。
ここで、ちょっと解決しておきたい問題があります。

川見店主
なんでしょうか?

――:
以前、アシックスがホームページで公開していた 「60周年~アシックス・ヒストリー」では、1953年、同社(当時オニツカ)にとっての「マラソン足袋」第一号を発売し、はやくも同年内にマラソンシューズ「マラップ」を発売したと紹介していました。

川見店主
鬼塚喜八郎(おにつか・きはちろう)さんが、 「鬼塚株式会社」を創業されたのが、1949年(昭和24)です。
今や世界的企業となったアシックスも、創業間もないオニツカの時代には、ハリマヤの後を追うように「マラソン足袋」や「マラソンシューズ」を開発しているんですね。

――:
ただ、ハリマヤとアシックスの歴史が混同されることが多いみたいで。
1951年ボストンマラソン優勝の田中茂樹選手はオニツカのマラソン足袋で走ったとか、後にハリマヤがアシックスになったとかいう誤解が生じることがあるみたいです。

川見店主
ハリマヤの存在と歴史を知らなければ、アシックスと混同するかもしれませんね。
マラソン足袋も、マラソンシューズも、はじまりはハリマヤですし、ハリマヤとアシックスは、まったく別の会社です。

――:
それにしても、1953年に初めて「マラソン足袋」をつくったオニツカが、同年内に早速マラソンシューズ「マラップ」をつくったというのは、展開が速いですね。

川見店主
山田さんの「カナグリシューズ」での優勝が少なからず影響しているのでしょうかね。
それに、鬼塚さんのことですから、マラソン「足袋」から「シューズ」への時代の変化は、敏感に察知しておられたとは思いますけれど。

【私心がないから皆が活きる】
鬼塚さんは、自ら作ったシューズをかばんに詰め込み、日本中の小売店を歩き回っては販売網を拡大した。地方で宿泊するお金がない時は、そのかばんを枕にして、駅のホームで寝たのだという。裸一貫で戦後の焼け野原から立ち上がり世界のアシックスを築きあげた男の、波乱万丈など根性一代記。
(日本実業出版社・昭和62発行)

――:
鬼塚さんは自伝 『私心がないから皆が活きる』において、当時のことをこんな風に述べておられます。

マラソン選手の悩みのタネは、足にできる底マメだった。
日本のマラソンシューズは、戦前は足袋だった。
明治45年、ストックホルム五輪にはじめてマラソンに参加した金栗四三氏がゴム底の地下足袋『金栗タビ』を考案し、これがずっと日本マラソン界では中心的に使用されていた。
戦後は、ズック靴型のシューズに変わり、やがて合成ゴムスポンジ底の軽いシューズに変わるなど改良の跡はみせてはきていた。
が、依然として選手の足にマメができる。
42.195kmも走り続けるのだから、マメができるのは当たりまえといってしまえばそれまでだが、なぜなのか?
マメのできないクツは不可能なのか?

鬼塚喜八郎「私心がないから皆が活きる」

そして、あるマラソン選手とこんな会話を交わす。

鬼塚さん、このマメが苦にならなくなってはじめて一流のマラソンランナーになれるんですよ。

鬼塚さん

じゃ、マメのできないクツをつくったらどうだろう?

そりゃ、素晴らしいだろうな。
でも、それは夢でしょうね。

で、鬼塚さんは、決意されたそうです。

鬼塚さん

よし!
オレがマメのできないクツをつくってやろう!

その後の鬼塚さんは、独自でマラソンシューズの研究開発を進められ、できあがったのが、 1959年発売の空冷式マラソンシューズ「マジックランナー」です。

「空冷式マラソンシューズ」マジックランナー・シリーズ
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1968年メキシコ五輪で銀メダルの君原健二選手が使用したのも、この「マジックランナー」です。
このシューズのシリーズは、長年にわたってベストセラーになったんですね。
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――:
オニツカの歩みからも、1953年を境にして、時代はマラソン「足袋」から「シューズ」へと一気に変わっていったことがわかります。

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