【第3章】

1953年ボストンマラソンを制した
山田敬蔵と
カナグリシューズ

秋田市八橋運動公園にある県立スポーツ会館。来館者の多い日曜日。ここに1足の古びたシューズが展示される。
色あせたこのシューズこそ、日本マラソン界の宝物なのだ。

▲山田選手がボストンマラソンで優勝したときはいた「カナグリマラソンシューズ」。
日本におけるマラソンシューズの第1号

あれは、もう34年前。
遙(はる)か遠いボストンでのできごとだった。

昭和28年4月20日の深夜、とてつもないビッグニュースを外電が伝えてきた。
身長150cmそこそこの小さな日本人が、2時間18分51秒の大記録で優勝したのである。
敗戦後、再建途上にあった日本に勇気と希望を与える感動的なVゴールだった。

小さな男・山田敬蔵さんは、今、しみじみと振り返る。

「ボストンマラソンで走ることが決まったとき、ハリマヤに長谷川さんという職人さんがいまして、こう言われたんです。
『ボストンは坂が多く、下りもあるからショック止めのため、かかとを高くしたシューズをつくろう』と。
かかとのラバーが1cmくらいの厚さで、まさに画期的なシューズでした」

このシューズをはいて、ハート・ブレイクヒル(心臓破りの丘)に挑んだ山田選手は、大記録でテープを切ったのである。

本格的なマラソン・シューズの第1号。
県立スポーツ会館に展示されているシューズは、このとき走ったものだ。
郷里の後輩たちのお役に立てば…と山田さんは秋田県に寄贈している。

第5回ストックホルム五輪が開かれる前年の明治44年、この年こそ、日本マラソン元年ともいえる。
そして、ハリマヤがマラソンへの情熱を傾け始めた記念すべき年であった。
日本が初めてオリンピック選手団を派遣することになり、その選手選考会が明治44年に開かれたのだ。

参加選手は金栗四三ら12名。
「ハリマヤ足袋店」の足袋をはいて、金栗四三は走った。
折返し点を過ぎたあたりで、足袋の底がはげてきた。
後半は素足で走り始める。
素足の足先は冷たく、泥のぬかるみに足をとられて滑ったことも。
しかし、優勝――2時間32分45秒。
当時の世界記録を27分も破る大記録。
だが、足はマメがつぶれて血だらけだった。

ここから「ハリマヤ足袋店」と金栗選手の共同作業で「破れない足袋」「走るための、勝つための足袋」の開発が始まった。ハリマヤのマラソンへの旅立ちであった。

そして、日夜研究・改良を重ねて、できあがった初の「マラソン足袋」が、金栗四三選手がストックホルム五輪ではいたものだった。

▲金栗選手が、ストックホルム五輪ではいた日本足袋。
ハリマヤ足袋店の特製でマラソン用第1号だ

しかし、ストックホルムのコースは石だたみの42.195km。布地の足袋ではショックが大きすぎて膝を痛めてしまった。

「破れない足袋」から「オリンピックに勝つためのシューズ」つくりへ。
改良の日々に明け暮れ、そして、ゴム底の研究が始まった。
足の底にゴムをつけ、そのゴム底に凸凹をつける。
この足袋で、金栗選手は、下関-東京間1200km、連続20日間を走り抜いた。
この快挙で、ハリマヤは日本足袋屋からマラソン足袋メーカーへの転進を決意する。

大正8年、マラソン足袋に、それまでのコハゼから甲にヒモがつけられた。
「金栗足袋」の誕生である。
この足袋で1936年、孫基禎選手が、ベルリン・オリンピックで優勝している。

▲孫選手がベルリン五輪で優勝したときはいたマラソン足袋。底に改良が加えられている

マラソンに賭けたハリマヤのシューズづくりは職人魂となって実を結んでいく。
より速く走るための研究と改良の日々。
そして、戦後の昭和26年、田中茂樹選手は金栗足袋でボストンマラソンに、日本人として初めて優勝。

▲田中選手がボストンで日本人として初優勝したときのハリマヤのマラソン足袋

昭和28年に勝った山田選手は「カナグリ・シューズ」をはいていた。

その山田さんが言う。

「今はシューズの種類も量も豊富で、私たちの時代から見るととても信じられないくらいですよ。
どうしてもマラソン足袋が欲しくて秋田から夜行列車で、朝早くに上野に着いてハリマヤに行ったことがありました。
ところが、朝早すぎて門が開いてないんです。
じっと開くのを1時間半くらい待って、頭を下げてマラソン足袋を分けてもらったことがありましたよ。
底が破れると、おふくろがぞうきんを縫うように穴をつくろってくれて…。
大切にはきましたねえ」  

ハリマヤの職人魂が作りあげたシューズをみんな心をこめてはいた。

完走できるマラソン足袋から始まったハリマヤの歴史は、より速く走るための研究・改良を重ねて今日に及んでいる。

ゴールのないハリマヤのマラソンシューズづくり。

金栗四三翁とともに歩んだ職人魂の伝統は今も生きている。

『月刊陸上競技』1987年6月号。
表紙はこの年のボストンマラソン優勝を果たした瀬古利彦

編集メモ

  • 月刊陸上競技<1987年6月号>に掲載されたハリマヤの広告です。山田敬蔵さんが語るカナグリシューズのエピソードを軸に、ハリマヤの歴史を紹介しています。
  • 「創刊20周年記念特大号」となったこの号の目玉は、特別企画『日本陸上小史』。過去20年間にグラビアを飾った選手たちの活躍を振り返る特集で、30ページにわたり過去の記事を紹介するとともに、企業の広告が掲載されています。
  • マラソン足袋やカナグリシューズの写真は、1989年度版カタログの「ハリマヤの歴史」に使用されている写真と同じです。どうやらカタログの「ハリマヤの歴史」は、この広告を元につくられたようです。
  • 山田さんのボストンマラソン優勝の話は、当時の日本人に大きな感動と勇気を与え、映画「心臓破りの丘」にもなりました。

【第3章】

1953年ボストンマラソンを制した
山田敬蔵と
カナグリシューズ

秋田市八橋運動公園にある県立スポーツ会館。来館者の多い日曜日。ここに1足の古びたシューズが展示される。
色あせたこのシューズこそ、日本マラソン界の宝物なのだ。

▲山田選手がボストンマラソンで優勝したときはいた「カナグリマラソンシューズ」。
日本におけるマラソンシューズの第1号

あれは、もう34年前。
遙(はる)か遠いボストンでのできごとだった。

昭和28年4月20日の深夜、とてつもないビッグニュースを外電が伝えてきた。
身長150cmそこそこの小さな日本人が、2時間18分51秒の大記録で優勝したのである。
敗戦後、再建途上にあった日本に勇気と希望を与える感動的なVゴールだった。

小さな男・山田敬蔵さんは、今、しみじみと振り返る。

「ボストンマラソンで走ることが決まったとき、ハリマヤに長谷川さんという職人さんがいまして、こう言われたんです。
『ボストンは坂が多く、下りもあるからショック止めのため、かかとを高くしたシューズをつくろう』と。
かかとのラバーが1cmくらいの厚さで、まさに画期的なシューズでした」

このシューズをはいて、ハート・ブレイクヒル(心臓破りの丘)に挑んだ山田選手は、大記録でテープを切ったのである。

本格的なマラソン・シューズの第1号。
県立スポーツ会館に展示されているシューズは、このとき走ったものだ。
郷里の後輩たちのお役に立てば…と山田さんは秋田県に寄贈している。

第5回ストックホルム五輪が開かれる前年の明治44年、この年こそ、日本マラソン元年ともいえる。
そして、ハリマヤがマラソンへの情熱を傾け始めた記念すべき年であった。
日本が初めてオリンピック選手団を派遣することになり、その選手選考会が明治44年に開かれたのだ。

参加選手は金栗四三ら12名。
「ハリマヤ足袋店」の足袋をはいて、金栗四三は走った。
折返し点を過ぎたあたりで、足袋の底がはげてきた。
後半は素足で走り始める。
素足の足先は冷たく、泥のぬかるみに足をとられて滑ったことも。
しかし、優勝――2時間32分45秒。
当時の世界記録を27分も破る大記録。
だが、足はマメがつぶれて血だらけだった。

ここから「ハリマヤ足袋店」と金栗選手の共同作業で「破れない足袋」「走るための、勝つための足袋」の開発が始まった。ハリマヤのマラソンへの旅立ちであった。

そして、日夜研究・改良を重ねて、できあがった初の「マラソン足袋」が、金栗四三選手がストックホルム五輪ではいたものだった。

▲金栗選手が、ストックホルム五輪ではいた日本足袋。
ハリマヤ足袋店の特製でマラソン用第1号だ

しかし、ストックホルムのコースは石だたみの42.195km。布地の足袋ではショックが大きすぎて膝を痛めてしまった。

「破れない足袋」から「オリンピックに勝つためのシューズ」つくりへ。
改良の日々に明け暮れ、そして、ゴム底の研究が始まった。
足の底にゴムをつけ、そのゴム底に凸凹をつける。
この足袋で、金栗選手は、下関-東京間1200km、連続20日間を走り抜いた。
この快挙で、ハリマヤは日本足袋屋からマラソン足袋メーカーへの転進を決意する。

大正8年、マラソン足袋に、それまでのコハゼから甲にヒモがつけられた。
「金栗足袋」の誕生である。
この足袋で1936年、孫基禎選手が、ベルリン・オリンピックで優勝している。

▲孫選手がベルリン五輪で優勝したときはいたマラソン足袋。底に改良が加えられている

マラソンに賭けたハリマヤのシューズづくりは職人魂となって実を結んでいく。
より速く走るための研究と改良の日々。
そして、戦後の昭和26年、田中茂樹選手は金栗足袋でボストンマラソンに、日本人として初めて優勝。

▲田中選手がボストンで日本人として初優勝したときのハリマヤのマラソン足袋

昭和28年に勝った山田選手は「カナグリ・シューズ」をはいていた。

その山田さんが言う。

「今はシューズの種類も量も豊富で、私たちの時代から見るととても信じられないくらいですよ。
どうしてもマラソン足袋が欲しくて秋田から夜行列車で、朝早くに上野に着いてハリマヤに行ったことがありました。
ところが、朝早すぎて門が開いてないんです。
じっと開くのを1時間半くらい待って、頭を下げてマラソン足袋を分けてもらったことがありましたよ。
底が破れると、おふくろがぞうきんを縫うように穴をつくろってくれて…。
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金栗四三翁とともに歩んだ職人魂の伝統は今も生きている。

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編集メモ

  • 月刊陸上競技<1987年6月号>に掲載されたハリマヤの広告です。山田敬蔵さんが語るカナグリシューズのエピソードを軸に、ハリマヤの歴史を紹介しています。
  • 「創刊20周年記念特大号」となったこの号の目玉は、特別企画『日本陸上小史』。過去20年間にグラビアを飾った選手たちの活躍を振り返る特集で、30ページにわたり過去の記事を紹介するとともに、企業の広告が掲載されています。
  • マラソン足袋やカナグリシューズの写真は、1989年度版カタログの「ハリマヤの歴史」に使用されている写真と同じです。どうやらカタログの「ハリマヤの歴史」は、この広告を元につくられたようです。
  • 山田さんのボストンマラソン優勝の話は、当時の日本人に大きな感動と勇気を与え、映画「心臓破りの丘」にもなりました。

ご投稿いただいた内容は「【第7章】みんなと語るハリマヤの思い出」のページに公開させていただきます。

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オーダーメイドを極めた
最高級のインソール技術

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