今から100年以上も前の話。
1912年の第5回オリンピック・ストックホルム大会で、日本人初のオリンピック選手・金栗四三さんは、足袋(たび)を履いてマラソンに出場しました。
その足袋を作ったのが、播磨屋(ハリマヤ)足袋店の足袋職人・黒坂辛作さんでした。
播磨屋足袋店は戦後にはシューズメーカー「ハリマヤ」に発展。
その巧みな技術から生み出すランニングシューズは、たくさんの陸上競技選手やランナーたちに愛用されました。
しかし「ハリマヤ」は、1990年頃に忽然と姿を消してしまいました。
オリンピアサンワーズに現存する資料と、みなさんからいただいた言葉で紡(つむ)ぐ、伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」の歴史と、日本のランニングシューズ100年の物語。
作成:オリンピアサンワーズネット編集部
今から100年以上も前の話。
1912年の第5回オリンピック・ストックホルム大会で、
日本人初のオリンピック選手・金栗四三さんは、
足袋(たび)を履いてマラソンに出場しました。
その足袋を作ったのが、
播磨屋(ハリマヤ)足袋店の足袋職人・黒坂辛作さんでした。
播磨屋足袋店は戦後にはシューズメーカー「ハリマヤ」に発展。
その巧みな技術から生み出すランニングシューズは、
たくさんの陸上競技選手やランナーたちに愛用されました。
しかし「ハリマヤ」は、1990年頃に忽然と姿を消してしまいました。
オリンピアサンワーズに現存する資料と、
みなさんからいただいた言葉で紡(つむ)ぐ、
伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」の歴史と、
日本のランニングシューズ100年の物語。
作成:オリンピアサンワーズネット編集部
【第3章】
1953年ボストンマラソンを制した
山田敬蔵と
カナグリシューズ
1953年ボストンマラソン。
小さな日本人がコースの最難関「ハートブレイク・ヒル(心臓破りの丘)」を誰よりも速く越え、大記録で優勝した。
その男こそ、金栗四三の愛弟子・山田敬蔵。
このレースで山田が使用したのは「金栗足袋」ではなく、日本のマラソンシューズ第1号「カナグリシューズ」だった。
『月刊陸上競技』<1987年6月号>のハリマヤ広告から、山田が語るカナグリシューズ秘話を全文掲載。
日本マラソン界の宝物
秋田市八橋運動公園にある県立スポーツ会館。来館者の多い日曜日。ここに1足の古びたシューズが展示される。
色あせたこのシューズこそ、日本マラソン界の宝物なのだ。
あれは、もう34年前。
遙(はる)か遠いボストンでのできごとだった。
昭和28年4月20日の深夜、とてつもないビッグニュースを外電が伝えてきた。
身長150cmそこそこの小さな日本人が、2時間18分51秒の大記録で優勝したのである。
敗戦後、再建途上にあった日本に勇気と希望を与える感動的なVゴールだった。
小さな男・山田敬蔵さんは、今、しみじみと振り返る。
「ボストンマラソンで走ることが決まったとき、ハリマヤに長谷川さんという職人さんがいまして、こう言われたんです。
『ボストンは坂が多く、下りもあるからショック止めのため、かかとを高くしたシューズをつくろう』と。
かかとのラバーが1cmくらいの厚さで、まさに画期的なシューズでした」
このシューズをはいて、ハート・ブレイクヒル(心臓破りの丘)に挑んだ山田選手は、大記録でテープを切ったのである。
本格的なマラソン・シューズの第1号。
県立スポーツ会館に展示されているシューズは、このとき走ったものだ。
郷里の後輩たちのお役に立てば…と山田さんは秋田県に寄贈している。
マラソンシューズのルーツは日本足袋
第5回ストックホルム五輪が開かれる前年の明治44年、この年こそ、日本マラソン元年ともいえる。
そして、ハリマヤがマラソンへの情熱を傾け始めた記念すべき年であった。
日本が初めてオリンピック選手団を派遣することになり、その選手選考会が明治44年に開かれたのだ。
参加選手は金栗四三ら12名。
「ハリマヤ足袋店」の足袋をはいて、金栗四三は走った。
折返し点を過ぎたあたりで、足袋の底がはげてきた。
後半は素足で走り始める。
素足の足先は冷たく、泥のぬかるみに足をとられて滑ったことも。
しかし、優勝――2時間32分45秒。
当時の世界記録を27分も破る大記録。
だが、足はマメがつぶれて血だらけだった。
ここから「ハリマヤ足袋店」と金栗選手の共同作業で「破れない足袋」「走るための、勝つための足袋」の開発が始まった。ハリマヤのマラソンへの旅立ちであった。
そして、日夜研究・改良を重ねて、できあがった初の「マラソン足袋」が、金栗四三選手がストックホルム五輪ではいたものだった。
しかし、ストックホルムのコースは石だたみの42.195km。布地の足袋ではショックが大きすぎて膝を痛めてしまった。
「破れない足袋」から「オリンピックに勝つためのシューズ」つくりへ。
改良の日々に明け暮れ、そして、ゴム底の研究が始まった。
足の底にゴムをつけ、そのゴム底に凸凹をつける。
この足袋で、金栗選手は、下関-東京間1200km、連続20日間を走り抜いた。
この快挙で、ハリマヤは日本足袋屋からマラソン足袋メーカーへの転進を決意する。
大正8年、マラソン足袋に、それまでのコハゼから甲にヒモがつけられた。
「金栗足袋」の誕生である。
この足袋で1936年、孫基禎選手が、ベルリン・オリンピックで優勝している。
昔から、速く走るためのシューズづくりの心は変わらない
マラソンに賭けたハリマヤのシューズづくりは職人魂となって実を結んでいく。
より速く走るための研究と改良の日々。
そして、戦後の昭和26年、田中茂樹選手は金栗足袋でボストンマラソンに、日本人として初めて優勝。
昭和28年に勝った山田選手は「カナグリ・シューズ」をはいていた。
その山田さんが言う。
「今はシューズの種類も量も豊富で、私たちの時代から見るととても信じられないくらいですよ。
どうしてもマラソン足袋が欲しくて秋田から夜行列車で、朝早くに上野に着いてハリマヤに行ったことがありました。
ところが、朝早すぎて門が開いてないんです。
じっと開くのを1時間半くらい待って、頭を下げてマラソン足袋を分けてもらったことがありましたよ。
底が破れると、おふくろがぞうきんを縫うように穴をつくろってくれて…。
大切にはきましたねえ」
ハリマヤの職人魂が作りあげたシューズをみんな心をこめてはいた。
完走できるマラソン足袋から始まったハリマヤの歴史は、より速く走るための研究・改良を重ねて今日に及んでいる。
ゴールのないハリマヤのマラソンシューズづくり。
金栗四三翁とともに歩んだ職人魂の伝統は今も生きている。
(初出2019年02月22日)
編集メモ
- 月刊陸上競技<1987年6月号>に掲載されたハリマヤの広告です。山田敬蔵さんが語るカナグリシューズのエピソードを軸に、ハリマヤの歴史を紹介しています。
- 「創刊20周年記念特大号」となったこの号の目玉は、特別企画『日本陸上小史』。過去20年間にグラビアを飾った選手たちの活躍を振り返る特集で、30ページにわたり過去の記事を紹介するとともに、企業の広告が掲載されています。
- マラソン足袋やカナグリシューズの写真は、1989年度版カタログの「ハリマヤの歴史」に使用されている写真と同じです。どうやらカタログの「ハリマヤの歴史」は、この広告を元につくられたようです。
- 山田さんのボストンマラソン優勝の話は、当時の日本人に大きな感動と勇気を与え、映画「心臓破りの丘」にもなりました。
【第3章】
1953年ボストンマラソンを制した
山田敬蔵と
カナグリシューズ
1953年ボストンマラソン。
小さな日本人がコースの最難関「ハートブレイク・ヒル(心臓破りの丘)」を誰よりも速く越え、大記録で優勝した。
その男こそ、金栗四三の愛弟子・山田敬蔵。
このレースで山田が使用したのは「金栗足袋」ではなく、日本のマラソンシューズ第1号「カナグリシューズ」だった。
『月刊陸上競技』<1987年6月号>のハリマヤ広告から、山田が語るカナグリシューズ秘話を全文掲載。
日本マラソン界の宝物
秋田市八橋運動公園にある県立スポーツ会館。来館者の多い日曜日。ここに1足の古びたシューズが展示される。
色あせたこのシューズこそ、日本マラソン界の宝物なのだ。
あれは、もう34年前。
遙(はる)か遠いボストンでのできごとだった。
昭和28年4月20日の深夜、とてつもないビッグニュースを外電が伝えてきた。
身長150cmそこそこの小さな日本人が、2時間18分51秒の大記録で優勝したのである。
敗戦後、再建途上にあった日本に勇気と希望を与える感動的なVゴールだった。
小さな男・山田敬蔵さんは、今、しみじみと振り返る。
「ボストンマラソンで走ることが決まったとき、ハリマヤに長谷川さんという職人さんがいまして、こう言われたんです。
『ボストンは坂が多く、下りもあるからショック止めのため、かかとを高くしたシューズをつくろう』と。
かかとのラバーが1cmくらいの厚さで、まさに画期的なシューズでした」
このシューズをはいて、ハート・ブレイクヒル(心臓破りの丘)に挑んだ山田選手は、大記録でテープを切ったのである。
本格的なマラソン・シューズの第1号。
県立スポーツ会館に展示されているシューズは、このとき走ったものだ。
郷里の後輩たちのお役に立てば…と山田さんは秋田県に寄贈している。
マラソンシューズのルーツは日本足袋
第5回ストックホルム五輪が開かれる前年の明治44年、この年こそ、日本マラソン元年ともいえる。
そして、ハリマヤがマラソンへの情熱を傾け始めた記念すべき年であった。
日本が初めてオリンピック選手団を派遣することになり、その選手選考会が明治44年に開かれたのだ。
参加選手は金栗四三ら12名。
「ハリマヤ足袋店」の足袋をはいて、金栗四三は走った。
折返し点を過ぎたあたりで、足袋の底がはげてきた。
後半は素足で走り始める。
素足の足先は冷たく、泥のぬかるみに足をとられて滑ったことも。
しかし、優勝――2時間32分45秒。
当時の世界記録を27分も破る大記録。
だが、足はマメがつぶれて血だらけだった。
ここから「ハリマヤ足袋店」と金栗選手の共同作業で「破れない足袋」「走るための、勝つための足袋」の開発が始まった。ハリマヤのマラソンへの旅立ちであった。
そして、日夜研究・改良を重ねて、できあがった初の「マラソン足袋」が、金栗四三選手がストックホルム五輪ではいたものだった。
しかし、ストックホルムのコースは石だたみの42.195km。布地の足袋ではショックが大きすぎて膝を痛めてしまった。
「破れない足袋」から「オリンピックに勝つためのシューズ」つくりへ。
改良の日々に明け暮れ、そして、ゴム底の研究が始まった。
足の底にゴムをつけ、そのゴム底に凸凹をつける。
この足袋で、金栗選手は、下関-東京間1200km、連続20日間を走り抜いた。
この快挙で、ハリマヤは日本足袋屋からマラソン足袋メーカーへの転進を決意する。
大正8年、マラソン足袋に、それまでのコハゼから甲にヒモがつけられた。
「金栗足袋」の誕生である。
この足袋で1936年、孫基禎選手が、ベルリン・オリンピックで優勝している。
昔から、速く走るためのシューズづくりの心は変わらない
マラソンに賭けたハリマヤのシューズづくりは職人魂となって実を結んでいく。
より速く走るための研究と改良の日々。
そして、戦後の昭和26年、田中茂樹選手は金栗足袋でボストンマラソンに、日本人として初めて優勝。
昭和28年に勝った山田選手は「カナグリ・シューズ」をはいていた。
その山田さんが言う。
「今はシューズの種類も量も豊富で、私たちの時代から見るととても信じられないくらいですよ。
どうしてもマラソン足袋が欲しくて秋田から夜行列車で、朝早くに上野に着いてハリマヤに行ったことがありました。
ところが、朝早すぎて門が開いてないんです。
じっと開くのを1時間半くらい待って、頭を下げてマラソン足袋を分けてもらったことがありましたよ。
底が破れると、おふくろがぞうきんを縫うように穴をつくろってくれて…。
大切にはきましたねえ」
ハリマヤの職人魂が作りあげたシューズをみんな心をこめてはいた。
完走できるマラソン足袋から始まったハリマヤの歴史は、より速く走るための研究・改良を重ねて今日に及んでいる。
ゴールのないハリマヤのマラソンシューズづくり。
金栗四三翁とともに歩んだ職人魂の伝統は今も生きている。
(初出2019年02月22日)
編集メモ
- 月刊陸上競技<1987年6月号>に掲載されたハリマヤの広告です。山田敬蔵さんが語るカナグリシューズのエピソードを軸に、ハリマヤの歴史を紹介しています。
- 「創刊20周年記念特大号」となったこの号の目玉は、特別企画『日本陸上小史』。過去20年間にグラビアを飾った選手たちの活躍を振り返る特集で、30ページにわたり過去の記事を紹介するとともに、企業の広告が掲載されています。
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- 山田さんのボストンマラソン優勝の話は、当時の日本人に大きな感動と勇気を与え、映画「心臓破りの丘」にもなりました。
Dedicated to the memories of Shinsaku Kurosaka.
Special thanks to Tomiyo Fukuda.
Produced by Olympia Sunwards
オーダーメイドを極めた
最高級のインソール技術
当店が作成するオーダーメイドのインソール(中敷)は、 アメリカに本社のあるアムフィット社製。あなたの足型をインソール上に再現する画期的なシステムが足とシューズのジャストフィットを実現します。パフォーマンスアップ、ケガや故障の防止、疲労軽減、アライメント補正など多くの効果が実証されています。
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