【第2章】

黒坂辛作
「我、世界に勝つ」

~1936年の新聞記事から

マラソン足袋の開祖が狂喜
裏に刻む苦心三十年

日本のマラソンを今日の栄誉あらしめた二十四年間、「マラソン王」と言はれた金栗氏の頃から長距離用の運動足袋を作り、今度の孫、南両選手によつて (※1)輝かしい世界的存在になつた足袋屋さんがある。
大塚仲町の小さい足袋屋黒坂辛作さん(56)がそれだ。 (※2)
日本の喜びを背負つたやうに一人悦(えつ)に入ってゐる。

黒坂さん

よかったですナァ。
あの足袋も殆(ほとん)ど完全に近いことになつた訳ですよ。

金栗さんが高等師範の生徒さんだつた頃に私に注文されて作つた足袋で「金栗式スポーツ足袋」ですヨ。
――五、六度も改良しましたかナ――

孫さんのは、十文半で南さんのは十文、●●さんのも十文半です。
一人五足づつ持つ行かれましたが中にも南さんは非常に熱心で、製作中はいつも仕事場についてゐて、指●されました――

黒坂さんの語る「足袋から見たマラソン発達史」は面白い。

黒坂さん

金栗さんの高師在学中より少し前、吉田保さんの時から足袋を作りましたが、三十年も前になりますヨ。

その後大宮までのマラソンが金栗さん達でやられましたが、その時は日本足袋も軽い方がよいといふので、底も一重でしたが、金栗さんが研究されて底を三重にしました。
それがアントワープ(※3)から使われましたヨ。

やがてコハゼを運動靴式に紐結びにしました。

道がコンクリートやアスフアルトになると共に地下足袋のようなゴム底にしたのです。
新案特許をとつてから十七年になります。

これまでのオリムピックにはづ ツとこれです。
ロサンゼルス(※4)に津田さん達の行かれた時だけ靴でした。

黒坂さん

孫さんがレースの終いに足袋で足が痛くなったということですが、足袋は五足それも少しづつちがったもので、どれをはかれたんですかね。

今度の注文は非常にこの足袋を重要視されて ……

<3行ほど解読不能>

……小さいと血まめが出て内出血するし、紙一重のところです。

長い距離を走ると足がふやけて少し大きくなります。
最後の五六マイルで足袋がつまつてくる、少し痛いナといふところでレースが終わる……といふのが足袋を作るコツです。

かうして私はこの三十年どうすればうまく走れるかを研究し先生や選手達のいふままに作つて来たのですがお蔭でマラソンは日本足袋にかぎるといふことになりましたね。

外国にはこんな指の股のついたのなんかないでせうナ、ハハハ――

と欠けた歯を出して得意さうに笑った。
栄冠の裏にこの苦心――三十年目に報いられた足袋屋さんの技術の誉れ……

編集メモ

  • この新聞記事は、黒坂辛作さんの「曾孫(ひまご)」さん所蔵のもの(コピー)です。
  • この記事が掲載された新聞の名前・日付など詳しくは不明。読み取れない文字もあります。
  • 当時は朝鮮半島が日本に併合されていたという歴史的背景があります。
  • (※1)1936年ベルリン五輪で、日本はマラソンで孫基禎選手が金メダル、南昇龍選手が銅メダル。よって、記事内容から1936年の新聞記事であることが推定されます。
  • (※2)当時黒坂さんの年齢は「56歳」。つまり黒坂さんは1880年生まれだとわかります
    ⇒【訂正】黒坂さんの曾孫さんから、辛作さんは「1881年11月24日生まれ」「1966年3月31日逝去」と教えていただきました
  • (※3)アントワープ五輪は1920年開催
  • (※4)ロサンゼルス五輪は1932年開催
  • 播磨屋足袋店は1903年に創業。黒坂さんの言葉に「30年」もの間「どうすればうまく走れるか研究し」とあります。また、金栗氏と出会う「少し前」からとの言葉もありますから、1900年代の早い時期からマラソン足袋を研究されていたようです。

【第2章】

黒坂辛作
「我、世界に勝つ」

マラソン足袋の開祖が狂喜
裏に刻む苦心三十年

日本のマラソンを今日の栄誉あらしめた二十四年間、「マラソン王」と言はれた金栗氏の頃から長距離用の運動足袋を作り、今度の孫、南両選手によつて (※1)輝かしい世界的存在になつた足袋屋さんがある。

大塚仲町の小さい足袋屋黒坂辛作さん(56)がそれだ。 (※2)

日本の喜びを背負つたやうに一人悦(えつ)に入ってゐる。

黒坂さん

よかったですナァ。
あの足袋も殆(ほとん)ど完全に近いことになつた訳ですよ。

金栗さんが高等師範の生徒さんだつた頃に私に注文されて作つた足袋で「金栗式スポーツ足袋」ですヨ。
――五、六度も改良しましたかナ――

孫さんのは、十文半で南さんのは十文、●●さんのも十文半です。
一人五足づつ持つ行かれましたが中にも南さんは非常に熱心で、製作中はいつも仕事場についてゐて、指●されました――

黒坂さんの語る「足袋から見たマラソン発達史」は面白い。

黒坂さん

金栗さんの高師在学中より少し前、吉田保さんの時から足袋を作りましたが、三十年も前になりますヨ。

その後大宮までのマラソンが金栗さん達でやられましたが、その時は日本足袋も軽い方がよいといふので、底も一重でしたが、金栗さんが研究されて底を三重にしました。
それがアントワープ(※3)から使われましたヨ。

やがてコハゼを運動靴式に紐結びにしました。

道がコンクリートやアスフアルトになると共に地下足袋のようなゴム底にしたのです。
新案特許をとつてから十七年になります。

これまでのオリムピックにはづ ツとこれです。
ロサンゼルス(※4)に津田さん達の行かれた時だけ靴でした。

黒坂さん

孫さんがレースの終いに足袋で足が痛くなったということですが、足袋は五足それも少しづつちがったもので、どれをはかれたんですかね。

今度の注文は非常にこの足袋を重要視されて ……

<3行ほど解読不能>

……小さいと血まめが出て内出血するし、紙一重のところです。

長い距離を走ると足がふやけて少し大きくなります。
最後の五六マイルで足袋がつまつてくる、少し痛いナといふところでレースが終わる……といふのが足袋を作るコツです。

かうして私はこの三十年どうすればうまく走れるかを研究し先生や選手達のいふままに作つて来たのですがお蔭でマラソンは日本足袋にかぎるといふことになりましたね。

外国にはこんな指の股のついたのなんかないでせうナ、ハハハ――

と欠けた歯を出して得意さうに笑った。
栄冠の裏にこの苦心――三十年目に報いられた足袋屋さんの技術の誉れ……

編集メモ

  • この新聞記事は、黒坂辛作さんの「曾孫(ひまご)」さん所蔵のもの(コピー)です。
  • この記事が掲載された新聞の名前・日付など詳しくは不明。読み取れない文字もあります。
  • 当時は朝鮮半島が日本に併合されていたという歴史的背景があります。
  • (※1)1936年ベルリン五輪で、日本はマラソンで孫基禎選手が金メダル、南昇龍選手が銅メダル。よって、記事内容から1936年の新聞記事であることが推定されます。
  • (※2)当時黒坂さんの年齢は「56歳」。つまり黒坂さんは1880年生まれだとわかります
    ⇒【訂正】黒坂さんの曾孫さんから、辛作さんは「1881年11月24日生まれ」「1966年3月31日逝去」と教えていただきました。
  • (※3)アントワープ五輪は1920年開催
  • (※4)ロサンゼルス五輪は1932年開催
  • 播磨屋足袋店は1903年に創業。黒坂さんの言葉に「30年」もの間「どうすればうまく走れるか研究し」とあります。また、金栗氏と出会う「少し前」からとの言葉もありますから、1900年代の早い時期からマラソン足袋を研究されていたようです。

ご投稿いただいた内容は「【第7章】みんなと語るハリマヤの思い出」のページに公開させていただきます。

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オーダーメイドを極めた
最高級のインソール技術

当店が作成するオーダーメイドのインソール(中敷)は、 アメリカに本社のあるアムフィット社製。あなたの足型をインソール上に再現する画期的なシステムが足とシューズのジャストフィットを実現します。パフォーマンスアップ、ケガや故障の防止、疲労軽減、アライメント補正など多くの効果が実証されています。

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